山藍紫姫子 堕天使の島 目 次  第一章 聖なる島へ  第二章 島という檻に閉じこめられた獣たち  第三章 栄光の過去、地獄の現在、絶望の未来  第四章 乱 舞  第五章 死を運ぶ天使  第六章 決断の刻《とき》  第七章 未来へ   あとがき  第一章 聖なる島へ  灰《はい》みがかった青をした五月の海は、午睡の時間だとでもいいたげな穏やかさだった。  時おり、海面に輝く銀色の点がうまれて、集まり、小さな波に変わっていくのが見えるが、それすらも直《す》ぐに凪《な》ぎ、消えていった。  保護司《ほごし》の運営する農場を飛び立ったヘリコプターは、海洋に出てからも、すでに一時間以上の飛行を続けている。  この間、海鳥は、騒音をあげ、ローター・ブレードを回転させて飛ぶ鉄の怪鳥に恐れをなしたか、姿を見せない。  海のなかにも、養われている多くの生命があるにも拘《かか》わらず、片鱗《へんりん》も見えなかった。  七人乗りヘリコプターの後部座席《キヤビン》には、少年院を出てもまだ矯正不能と判断された凶悪不良の少年、今井由|樹也《ゆきや》と坂上|俊輔《しゆんすけ》、そして富樫秋生《とがしあきお》の三人が並び、向かい側の座席には、迷彩服に身を包んだ監視役の井藤《いとう》が座っていた。  自ら教官と名乗った井藤は、丸い赤ら顔にちょび髭《ひげ》を生やした三十過ぎの男だ。  彼は、腕時計を見て時間を確かめると、緊張した面もちでいる少年たちの方に視線を戻した。 「あと五分で楽園に到着するぞ、覚悟はいいな?」  絶対的な立場から、他人に最終宣告を下す者が味わう歪《ゆが》んだ快楽が、井藤の表情に顕《あらわ》れている。  三人のうちの一人、少年と言ってしまうには育ちすぎている十八歳の富樫秋生は、井藤から視線を逸《そ》らすと、窓に顔を寄せ、海面を見下ろした。  この時はまだ、どこへ連れて行かれるのか、それ以前に、自分の身になにが起ころうとしているのか、富樫秋生は理解出来ていなかった。  だが、少年院に入る前は、暴走族の副総長として、夜と高速と暴力の世界に君臨した秋生なのだ。  彼には、迷彩服の井藤もまた、夜と暴力の世界に属する男であると判っていた。  そのような男が、少年たちの更生を助け、再犯の予防に当たるという社会事業に関わっているのが信じられない。そればかりか、保護観察中の三人をヘリに乗せ、彼の言う「楽園」へと連れて行こうとしているのだ。  何も知らない秋生とは違い、同乗している二人の少年には、自分たちの行く末が判っているようだった。  ヘリに乗せられ、自己紹介させられた直後から、秋生の隣で身を竦《すく》ませ声もなく泣き続けている由樹也は、青白く痩《や》せ、ひ弱そうな十六歳の少年だ。  もう一人の俊輔は、がっしりと大柄な体躯《たいく》と、怒っているティラノサウルスといった表情をした十八歳だ。  由樹也も俊輔も一月ほど前から農場で働かされ、ヘリが飛ぶ日まで待機させられていたために、レンガ色をした作業着《ジヤンプ・スーツ》にスニーカーを履き、同じリュックを持っている。  秋生だけが、今日の午後、少年院を仮退院となり、保護司の農場に着いたばかりだったのだ。  保護司の農場へ秋生を連れてきたのは、母の再婚相手である篠原清司郎《しのはらせいしろう》の秘書で、真壁《まかべ》という中年男だった。 「残念ながら、富樫秋生さんは、ご両親が身元引き取りを拒否されましたので保護司あずかりとなりました」  篠原の秘書はそう言った。  少年院の中から出した手紙には返事をよこさず、一度も面会に来なかった母と義父に対し、もう何も期待しない秋生だったが、さすがにショックを受けた。  篠原は、手広く会社を経営し、社会的にも成功している男だが、秋生は、義父となった彼とはうまい親子関係を築けなかった。  暴走族に入った切っ掛けも、篠原との確執にあり、家庭に自分の居場所がないと感じてしまった時からだった。  篠原ならば、不良のレッテルを貼《は》られた妻の連れ子を疎ましく思い、無視するのは判る。だが、実母にまで見捨てられたのかと、秋生は訊《き》かずにいられなかった。 「母さんも、俺《おれ》を引き取らないって言ったのか?」  秋生の問いに、真壁の方は隠したり誤魔化《ごまか》したりする面倒を省き、役目とばかりに真実を告げた。 「奥様は、先月社長のご長男を出産されて、現在は育児の真っ最中ですから、他にご心労をお掛けすべきではないと思いますよ」  この瞬間まで、実母が篠原の子を妊娠出産したと知らなかった秋生は、身元引き取りを拒否されたと聞かされた時以上に、衝撃で頭の中が空白状態になってしまった。  真壁には秋生の胸中に配慮する思いやりなど、微塵《みじん》もなかった。  なにしろ、篠原の秘書は、社長が再婚した相手の連れ子ではあるが、養子縁組されていない秋生を呼ぶ時に、わざわざ富樫の名字を付けて話すというような男だったのだ。 「富樫秋生さんには、これからさらに一定期間を、保護司さんの運営する農場で健康的な農作業をしながら、実社会に戻るための訓練や指導を受けてもらいます」  そして真壁は、一時的な自失状態に陥ったような秋生を、高い塀で囲まれた異様な雰囲気のある農場へ連れて行き、電子警棒をちらつかせる迷彩服の男たちに引き渡したのだ。 「見ろよ、お前たちの楽園になるホーリー島だ」  井藤の訛声《だみごえ》に、ハッと秋生は我に返ると、海上の島を捜した。  午後の陽光がつくりだす銀色の光点が、集まったり、散ったりしている紺碧《こんぺき》の海に、平らな島が見えていた。  空中から俯瞰《ふかん》することではじめて判るのだが、周辺海域には特別な潮の流れがあるようだった。  そこだけ色の変わった海水が帯となって、土星の輪のように島を取り巻いているのだ。  さらに、ヘリが近づくと、絶海の孤島という言葉がそっくりあてはまる島の異様さがはっきりと見えてきた。  全体的に細長い島は、波に浸食され続けてギザギザになった海岸線を持ち、その小さな陸地の上に、たくさんの建造物を乗せていた。  まずは、風力発電用の風車が岬を一周して島を取り囲み、灯台のついた灰色の建物と松林を間に挟んで凸型の木造建物が建っている他、なによりも目立つのは、ずらりと並んだ白い合成樹脂のハウスだった。  ドーム型屋根を持つハウスは三十棟からあり、かまぼこが並んでいるようにも見える。  ヘリが、灯台のついた建物|脇《わき》にあるヘリポートに向かい下降をはじめると、作物の植わった畑や放牧された牛、平らな島のほぼ中心に池があるのも見えてきた。  鉄柵《てつさく》で囲まれ、外部からの侵入を防いでいる異様なヘリポートで着陸の誘導をしているのは、やはり迷彩服の男たちだが、俊輔たちと同じレンガ色の作業つなぎを着た少年の姿も三人ほど見えた。  さらに、迷彩服の男のなかには、肩からライフル銃をつり下げた者がいた。 「ここは日本じゃねぇのかよ」  反対側の窓から島を見ていた俊輔が、驚愕《きようがく》の叫びをあげ、井藤の失笑を買った。 「そうさなあ、日本じゃねえかもな」  井藤は、新入りの少年たちが、見るもの、知らされる事柄の一つ一つに驚き、そこにこめられている意味を感じ取り、驚き、悲しみ、絶望に喚《わめ》き散らすのを楽しみとしているのだ。  秋生は、俊輔が叫ばなければ自分が口にしていただろうと思いながらも、——今後、自分は決してこの男を楽しませはしないと、心に誓った。  だがそれは、これから身に降りかかる運命の苛酷《かこく》さを、まだ甘く見ていたからこそ出来た誓いでもあった。  着地したヘリから降ろされた秋生たちは、ライフル銃を構えた四十代後半と思われる男に引き渡され、銃口の前に立たせられた。  三人とも、警察に逮捕された時も、少年院でも、銃口を突きつけられた経験はなかった。  現在《いま》も、歯向かわなければ撃たれないだろうと思っていても、緊張と恐怖によって支配され、身動きがとれなくなっていた。  特にライフルを構えた男の様子が、どこか病的な感じがするので、秋生たちは恐怖を増幅させられるのだ。 「お待ちかねの食糧と、三人ばっかし、活《い》きのいいのを連れてきてやったぜ」  井藤は、地上で待っていた迷彩服の男たちに、軍隊を模した敬礼をかわして挨拶《あいさつ》を済ませると、ヘリの貨物室をひらき、積んできた荷物を見せた。  貨物室には、数ヵ月分の食糧や飲料水、衣類に細々とした雑貨が箱単位で入っているのだ。すぐさま、レンガ色の作業服を着た少年たちが積み荷を下ろしはじめ、迷彩服の男たちも加わった。  秋生たちの方は、ライフル男に脅されるようにしてヘリポートを離れ、十メートルほど先にある、島の管理棟まで歩かされることになった。  管理棟は、屋上に小さな灯台の付いた堅牢なコンクリート製二階建ての建物だった。  ヘリポートから続く荷物の運搬用出入口を通って管理棟に入った秋生たちは、相談室と書かれた部屋に連れて行かれた。 「ここで待ってろ。騒ぐんじゃないぞ」  ライフルを構えていた男はそう言うと、三人を残して相談室を出て行ったが、何をそれほど警戒するのか、ドアに鍵《かぎ》を掛けていくのを忘れなかった。  相談室は二十畳ほどの部屋だった。  鉄格子の嵌《はま》った窓と、入ってきた廊下側とは別の壁にもう一枚のドアがある他には、家具は一切なく、剥《む》きだしのコンクリート床は、冷たく湿っている感じがした。  三人だけになると、すかさず俊輔が、壁側のドアを調べに行った。  そちらのドアは施錠《せじよう》されてはいなかった。  すぐに開いたが、中を見るなり、俊輔は絶句し、背後から覗《のぞ》き込んだ秋生と由樹也も言葉を失った。  相談室の奥にあったドアは、監房《かんぼう》へ通じる扉だったのだ。  中央を通路にして、右に四つ、左に六つ、鉄格子つきの狭くて細長い独房が並び、それぞれを仕切っているコンクリート壁からは、寝台車にあるような寝棚《ねだな》が吊《つ》られているのが見えた。  ドアを開けた右手の所だけが数段低く、シャワーのある洗い場になっているせいもあってか、全体に湿気《しけ》っぽく、かび臭かった。  ここは少年院の続きなのだと、秋生は思った。  それも、反抗する者を従わせるための道具は、警棒程度ではなく、ライフル銃なのだ。 「なんだよ、ここは……」  独房へと通じるドアを閉じた俊輔は、秋生の方へと向きなおり、訊いてきた。 「おめぇ、秋生とか言ったな。ここはどこだと思う?」  今後は名前だけで呼ばれることになるのだが、この時はいきなりだったので、秋生は驚いた。 「ホーリー島がか?」  聞き返した秋生に、俊輔は大仰に頷《うなず》いた。体格がよく、喧嘩《けんか》も強そうで、度胸もありそうに見える少年だが、今は、いっそう虚勢を張っている感じがあった。  泣くしか能のない由樹也は問題外として、三人のなかで年齢的には同じくらいの秋生に対し、俊輔は優劣をつけたいと考えている様子なのだ。 「日本だろう? ヘリで外国まで行けるわけないからな」  秋生は投げやりに答えた。  真壁は、保護司が運営する農場で健康的な農作業をするのだと言ったが、民間篤志家《みんかんとくしか》の保護司が、こんな島や武器を持ち、迷彩服の男たちを配しているはずがない。  母に見捨てられたショックや異父弟が産まれていた事ばかりに気を取られ、危険を感じていながら逃げ出さなかったという後悔が、今さらながらにやってきた。 「けどよ、ホーリー島なんて、日本にあんのか? 外国の名前みたいだろう」  俊輔の疑問に、どの方角に飛んでいたのかも判らなかったのだから、秋生は答えられなかった。時計も取りあげられているので、飛行時間から見当を付けるのも不可能だった。  ところがこの時、今までしゃくり上げていた由樹也が、思いがけなく口を開いた。 「ホーリーってヒイラギです」  歯と歯の間から息が洩《も》れているような声で、由樹也が先を続けた。 「あの…クリスマスのケーキとかに飾ってあるギザギザの葉っぱがヒイラギなんです。上から見たこの島の形が、似てたんです。だから、きっと…そっから名付けられたのかも……」  おどおどした口調だったが、言われてみると秋生にも納得できた。確かに島は、ギザギザの葉に見えなくもない形をしていたのだ。 「だったら、どこにあるかって訊《き》いてんだよ。東京の近くかどうかって」  自分よりも臆病者《おくびようもの》が物知りであるのは許せないとばかりに怒鳴った俊輔に、由樹也は竦《すく》みあがった。 「そ、そんなの判りません…っ…」  ふたたび泣き声に変わり、肩が慄《ふる》えはじめる。 「うるせぇ、泣かずに考えやがれッ」  俊輔が怒鳴ったところで、廊下側のドアが開き、くぐもった声がした。 「喧嘩はよくないな。それに、ここでは皆に丁寧な言葉遣いをさせているんだよ。だからこれからは気をつけてほしいね。私は寛大な方だが下品な言葉は嫌いなのでね…」  声と同時に、肥満ぎみの身体《からだ》を濃紺のブレザー型制服につつみ、ネクタイを締めた男が、ライフル銃を持った男とともに入ってきた。 「お前らそこに正座しろ、正座だ。こちらのお方は所長先生だぞ」  ライフルを構えた男はヒステリックに怒鳴ったばかりでなく、自分が少年たちに及ぼす力を見ようと、わざと銃口をあげた。  圧倒的な武器や、優位に立った時に、小者ほど日頃の鬱憤《うつぷん》が出てしまう。ふたたび、この男から銃口を向けられた秋生たちは、危険を感じとると、床に膝《ひざ》をつき正座の姿勢をとった。  所長は、ライフルを構えた男をたしなめるように手で合図してから、少年たちの前に立ち、微笑《ほほえ》んだ。 「私がこの島を管理する仙北谷《せんぼくや》だ。彼は西村先生で、優秀な料理長でもある。後から他の先生方も紹介するが、とにかく、私の島にようこそ。我々一同は君たちの到着を心から歓迎するよ」  ぽったりと太った頬《ほお》に眠そうな眼という締まりのない顔、猫背の仙北谷は、今まで剣呑《けんのん》な男ばかりを見てきた秋生には温厚な人に見えてしまうほどだったが、声の調子は、どこをとっても温かみがなかった。 「到着早々驚かせてしまったかな? 今日はヘリが来ていて、収穫物を運んでいる最中なのでね、忙しくて皆が殺気だっているんだが、普段はおっとりとしたいい環境なんだよ」  所長はそう言うと、持ってきたファイルに納められた資料を開き、ざっと目を通した。 「さて君たちのことだがね。まず由樹也くんは十六歳、ふむ、自宅に放火で、実のお母さんを焼死させたのか…」  容赦なくいう所長の言葉に、深く頭《こうべ》を垂れた由樹也が、啜《すす》りあげた。  由樹也は、母親が再婚し、双子の弟妹が産まれたことから疎外感を感じるようになり、衝動的に、弟たちが居なくなれば母親を取り戻せると放火したのだ。  ところが、母親は幼い子供たちを助けるために火の中に飛び込み、窓から子供たちを投げ下ろした直後、火に巻かれて焼死した。  医療少年院からの退院と同時に、由樹也は義理の父親によって、農場へと入れられ、島へ送られることになったのだ。 「俊輔くんは十八歳か。とてもそうは見えないほど立派な身体つきだね。そうか、ボクシングをやっていたからか、その特技を使って学校の同級生を脅して金を巻き上げていたなんて、恐ろしいまねをしたもんだ。なに、なに、君の恐喝に追いつめられて自殺した者までいるとは、最悪だな…」  ネチネチと言われる俊輔は、下唇を噛《か》み、怒りを怺《こら》えている。続いて所長が自分の方へと視線を移した時、秋生は、二人が耐えた努力を無駄にしないようにと、覚悟を決めた。 「秋生くんも十八歳か、近頃の子供は発育がいいな…、それで暴走族の副総長だったとは威勢もよさそうだな」  所長は窓から入ってくる陽光が暗くなってきたこともあり、西村に合図して天井の電灯を点《つ》けさせてから、秋生に取りかかった。 「無免許に道路交通法違反、毒物及び劇物取締法違反、凶器準備集合、傷害、恐喝か、悪質だな。群れてバイクを走らせてなにが面白いんだね? 空っぽの頭の中に風通しをよくしたいのかね? それとも、女の子にもてるとでも思っているのかな? その歳で、何人くらいの女の子を強姦《ごうかん》したんだね?」  秋生が答えないでいると、さらに所長は嫌がらせの言葉を連ねながら、秋生の家庭事情を読みあげ、手にした紙面を爪《つめ》で弾《はじ》いた。 「君も母親の再婚が原因か。どいつもこいつも、単なるマザコンの甘ったれどもだな…」  時間を掛け、所長はそれぞれの名前と、犯した罪を思い出させるように言ってから、満足そうに三人を見回した。 「全員、健康そうでなによりだ。さて、君たちにはまだ矯正が必要だから、我々がよしと判断するまで、軽い労働に従事しながら集団生活を学び、従順と社会性などを身につけて貰《もら》いたい。島には君たちの仲間が十五人いて、別の宿泊施設で暮らしているよ」 「そいつらも、俺《おれ》たちも、親に捨てられて島にきたってことだろう」  突然、反発するように言った俊輔に対し、所長は温厚そうな笑みで否定した。 「そんなふうに捻《ひね》くれてはいけないよ。確かに、ここに来れたのはご家族の承諾があったからだが、秩序ある生活と信頼できる仲間、我々の正しい導きがあれば、直《す》ぐに更生できて家族の元に戻れるよ」  今まで黙っていたライフル男の西村が、ニヤニヤ笑いを浮かべた。  所長の説明を、彼が態度で否定しているようなものだったが、構わずに仙北谷は続けた。 「長くて二年もいれば家に帰れる。もちろん、矯正がなかなか進まない寮生もいるが、君たちなら半年か、一年も必要ないかも知れないな」  新入りに絶望ばかりを与えるのはよくないとでも思ったのか、所長は優しげに言った。 「いま君たちが乗ってきたヘリは、二ヵ月ごとに食糧や必需品を運んでくる。この時に、君たちは必要な物や、家族からの差し入れを受け取ることができるんだ。他にも欲しい物があればなんでも希望を出していいんだよ。とにかく、テレビやラジオがないというだけで、他に不自由はないからね。その上に、海の彼方《かなた》に沈む夕日、漆黒の夜空、満天の星、めずらしい渡り鳥が飛来するこの尊い島は、君たちに安らぎを与えてくれるよ」  所長は顔の筋肉が弛緩《しかん》したようになっている。 「何よりも、君たちのいじけた心が、島の大自然とかかわるうちに、まずは平坦《へいたん》なものにまで回復するだろう。それから、様々な感情の起伏というものが生まれてくるはずだ。そうすれば、自分の犯した罪の大きさにも気が付けるというものだよ」  よほど愛着を持っているのか、所長は島を語りはじめると、言葉や、調子に陶酔《とうすい》じみたものが混じった。 「私はもう何年も島で暮らしてるが、ここを離れたいとは思わない素晴らしさがあるよ。君たちの中にも、帰りたがらない者が出るかも知れないな…」  またも、西村が笑い、所長は咳払《せきばら》いで料理人を黙らせると同時に、正気に返ったようだった。 「何か質問はあるかね?」  その機を逃さずに、また俊輔が台無しにしないうちに、秋生が手を挙げた。 「何だね」  所長の注意が向くと、すかさず秋生は、 「島の名前は、本当にホーリー島なんですか?」と、訊いた。  少年院で叩《たた》き込まれた、明瞭《めいりよう》な声と、礼儀正しい言い回しを、秋生は心がけた。  十ヵ月を過ごした少年院で、富樫秋生が学んだのは、自分の整った顔立ちや、上背のある体躯《たいく》といったものが、他人に与える印象を読み違えないことだった。  人は、見た目で人を判断し、第一印象で快不快を決めてしまうこともあるが、男ばかりの環境に身を置いた時には、顔立ちが整っているというのは、特別の場合をおいて以外は、悪い方向にしか作用しないように思われる。  男同士でも、相手の美醜に嫉妬《しつと》するのだと、秋生は知ったのだ。  故に、秋生は所長に接する態度として、まずは礼儀正しさを装った。 「誰が教えたかは知らないが、聖なる《ホーリー》島とは巧《うま》いことを言うな。だがここは、個人が所有する島で地図にも載っていないくらいだから、名前もないんだよ。私たちも島としか呼ばないな」 「日本なんですか?」 「当たり前だよ」  所長が呆《あき》れたように笑ったところでノックがあり、廊下側のドアが開いて迷彩服の男たちが入ってきた。 「無事にヘリは飛び立ちました」  一番先に入ってきた、細くつりあがった眼に、尖《とが》った顎《あご》を持った痩《や》せぎすの男が、仙北谷に報告した。  次に来たのは井藤だった。それから、両手に段ボール箱を抱えた男が二人、入ってきた。  一人は頬《ほお》に傷がある長身の男で、もう一人は角張った赤ら顔に猪首《いくび》のずんぐりとした大男で、いずれも三十代後半から四十代前半といった年齢に見えた。  これで六人という職員が全員|揃《そろ》ったのだが、ライフル男の西村は役目が終わったとばかりに部屋を出ていき、結局は五人が残った。  所長の仙北谷は、正座させた新入りの名前を一人ずつ呼び、「はい」と返事をさせてから、どう見ても堅気《かたぎ》ではない男たちの紹介に移った。 「副所長の鳩屋《はとや》先生だ。隣が井藤先生、佐古田《さこた》先生、大木先生で、君たちの指導をしてくださる」 「バラエティに富んでいますね、今回は……」  そう言ったのは、副所長の鳩屋だった。  キツネ顔の鳩屋は、神経質で性格の悪そうなタイプに見えたが、太って、絶えず微笑《ほほえ》みながら、優しげな声で話す所長の仙北谷に、外見からは想像もできないほど陰湿な意地の悪さを発揮された後とあって、秋生には、上面で男たちを判断する自信がなかった。 「では我々からの支給品を配る。ここには、いつでも君たちが困らないように必要なものが用意されているんだよ。感謝の気持ちを持って使うんだね」  次に所長がそう言うと、佐古田と大木が、持ってきた段ボール箱から衣類や靴などを配りはじめた。  支給されたのは、レンガ色の作業服と、同じ生地のズボン、半袖のTシャツがそれぞれ二着ずつ、長靴、トイレットペーパーが三個、大きな四角い石鹸《せつけん》が一つ、タオルが二枚。そろいの作業服以外は、すべてが倒産店の在庫を倉庫ごと買い取ってきた品物の寄せ集めのような品で、統一性はまったくなかった。 「自分の物は自分で管理して大切に使うんだ。なくなったら寮長に届けをだし、寮長が認めた場合だけ支給される。いいな」  わずかばかりの品を、与えてやると恩着せがましい所長と違って、佐古田は新入りの少年たちが必要な情報を教えてくれた。  だが、左|頬《ほお》に傷のある佐古田は、凄《すご》みが備わった顔で、口許《くちもと》を歪《ゆが》めた嗤《わら》い方をすると不気味に見えるような男だった。  それから、三人がそれぞれの品をバッグやリュックに詰め終わるのを待って、佐古田は所長の方を振り返った。 「宿舎へ連れて行きますか?」 「そうだな」  言われて腕時計を見た所長は、思いがけなく時間が経っていたことに驚いた様子で眼を剥《む》き、急に挙措《きよそ》が落ち着かなくなった。 「佐古田先生と井藤先生に彼等を寮へ連れて行ってもらい、向こうへの引き渡し役をお願いするよ。今からなら夕食に間に合うだろうし、ちょうどいい時間だ」  最後の言葉は態《わざ》とらしく不自然だったが、もはや仙北谷の意識はここにはないようだった。彼は、所長の役割としてもっとも大切だと思われる新入りの引き渡しを放棄すると、そそくさと相談室から出て行ってしまったのだ。  所長に続いて副所長の鳩屋も出ていき、秋生たちには、佐古田が歩み寄った。 「荷物を持って立て、宿舎へ行く」  佐古田に命ぜられた三人は、荷物を抱えて立ちあがると、俊輔を先頭に、由樹也、秋生で一列になり、相談室から廊下へと出た。  廊下の窓が開いていて、潮の匂《にお》いが入ってきているのを秋生は感じた。  そちらの方へ視線を移すと、太陽が沈んで間もないのか、空と海の境界線がうすぼんやりと見えた。  ただですら夕暮れは物悲しいものがある。  秋生にしろ、俊輔にしろ、かつては日が暮れて夜がはじまると、自分たちの時間が始まったような気がしたものだ。  身体《からだ》中に充実感がわき、心搏数が跳ねあがるほどの興奮が起こったのだが、少年院での生活で、夕暮れが寂しいものに変わり、夜は、子供の時に感じていた、不安で恐い時間に変わった。  島に連れて来られて初日の夜が始まろうとしているいま、秋生たちが感じている不安と淋《さび》しさは、いままでの比ではなかった。  ところが、佐古田と井藤に挟まれ、長い廊下を三人がぞろぞろと歩いている途中で、頭上から警報と思われるけたたましいサイレン音が鳴り出したのだ。  突然のことで、誰もが、飛びあがりそうになった。 「ここで待て、動くなよ」  佐古田に言われ、三人は廊下に留め置かれたが、すぐさま、あわただしく別のドアが開き、所長が顔を出した。 「何事だ」  通信室と思われる入口近くのドアから大木が出てきた。 「脱走です」  狭い廊下では、大木の辺りを憚《はば》かった声も秋生たちの耳に届いたが、所長は隠すつもりもないのか、大声で繰り返した。 「脱走だと?」  あわただしく階段を駆け降りてくる音とともに、今度は西村が現れ、ヒステリックに叫んだ。 「所長ッ、脱走です。流木を集めた筏《いかだ》を造って逃げた者がいますッ」 「灯台から見えるか?」 「それらしい物は見えるんですが、はっきりとは判りません、何分《なにぶん》、もう薄暗く、灯光《とうこう》もしぼってありますんで」  警報とともに灯台に登って調べたのだろう西村が答え、すかさず佐古田が訊《き》いた。 「センサーはどうしたんだ?」  西村は、問いかけた佐古田にではなく、所長の方へ向きなおって答えた。 「いつもは六時に入れるんですが、今日は遅れました。しかし、脱走した者は、もっと早い時間から海に出ていたようです」 「今日、新入りが入ると判っていて、そのために職員の注意がそれている間を狙《ねら》ったんですな」  いつの間にか来ていた副所長の鳩屋が口をはさんだが、少しも動じている様子はなかった。 「筏か、どこに隠していたんだ?」  所長の対応も暢気《のんき》に思われて、秋生は疑問を感じたほどだ。 「断崖《だんがい》の洞穴かも知れませんが……」  西村が一番おどおどしているのだが、他の者たちは、まったく動揺してはいないのだ。 「逃げ切れるわけもないのに」  鳩屋が冷笑を浮かべた。  だが、けじめは付けなければならないと、所長は佐古田と井藤に向かい、指示を出した。 「これから宿舎へ行き、寮生たちの点呼を頼むよ。今回の脱走をあらかじめ知っているふうがあれば、その者も同罪だ」  仙北谷はそう言ってから、秋生たちの方へと向きなおった。 「君たちには、今夜はここに泊まってもらうことになった。泊まれる部屋は反省房しかないが、悪くおもわんでくれよ。その代わりに夕食はご馳走《ちそう》してあげるからね」  秋生たちにすれば、宿舎で予定外の揉め事《トラブル》が起こっているのならば、新入りとしては、騒ぎが落ち着いてから連れて行ってもらえる方がよかった。脱走や、喧嘩《けんか》といった揉め事が起こっている最中に加わるのは、後々まで問題が生じるのだ。  例えば、事情も判らないのにどちらかの陣営に付かなければならないなど、判断ミスを犯す可能性があるからだ。  けれども、これから自分たちがどこへ連れて行かれるのかも三人には判り、憂鬱《ゆううつ》でもあった。  反省房というのは、あの相談室の奥にあった鉄格子の独房以外にはなさそうだったからだ。  形だけではあれ、所長の口から謝罪が出るように、さぞ居心地の悪い夜になるだろうと確信できるのだ。  今度は秋生が先頭になって、相談室へ戻された三人だったが、独房へと通じるドアを開けた時だった。  先ほどまで誰もいなかったはずの独房の中に水音がしていて、石鹸のよい香りと、湯気が漂っているのに気がついた。  誰かが、シャワーを浴びているのだ。  確かめようと、開けたドアで隠れてしまう洗い場の方を見た秋生は、一瞬、幽霊かと思った。  薄暗い電灯が灯《とも》った独房の中、妖《あや》しい発光物のように、真っ白い裸が見えたからだ。 「なんだ、クリス。ここにいたのか」  驚いて立ち止まった秋生を押し退け、前へと出た仙北谷所長が、白い裸体に向かって声をかけた。  誰もがこの時、突然に所長の雰囲気が変わったのを感じた。 「部屋にいなかったから、どこへ行ったのかと心配したんだぞ」  雰囲気ばかりでなく、怒ったような、拗《す》ねたような口調になっている。  するとコックをひねる音がしてシャワーがとまり、一段低くなった洗い場から、金砂色《プラチナブロンド》の髪に、碧《あお》い眸《ひとみ》を持つ美少年、——クリスが出てきた。  クリスを見た瞬間に、秋生は圧倒され、同時に困惑した。  あるいは感動したのだ。  彼は、秋生たちと同様に、島に連れてこられた少年の一人なのだろうが、ハーフと思われ、聖堂画の人物を思わせる中性的な容貌《ようぼう》の持ち主だった。  だが、彼の古典的な美貌は、近寄りがたいほど高貴なものだったが、全身から漂わせている雰囲気は、邪悪なほど淫《みだ》らだったのだ。  陽に灼《や》けたこともないと思われるほど真っ白な肌に、ピンク色の乳首、臍《へそ》のくぼみが青い陰になり、下肢の先端もピンク色だった。  男なのに、女性的な性の磁力を放っている感じがある。  目に見えない放射能に冒されるように、この時すでに秋生はクリスの浸透を受けていたのだが、まだ驚きの方が大きく、気が付いていなかった。 「新入り?」  その美貌から、クリスの声は蜜《みつ》を舐《な》めたような声かと思ったが、想像とは違い、クールな声だった。 「今日着いたばかりで、秋生と由樹也、俊輔の三人だ。なかなか元気がよさそうだぞ」  所長が一人ずつ指し示したので、クリスは順に三人を見た。  そうして彼は、よく知っている自分の美しさと、魅力が、新入りに作用しているのを見て取ったのか、満足そうに、うっすらと笑った。  肌が異常に白いせいで、クリスの口唇は赤く感じられる。  その、赤いが酷薄な感じのする口唇が持ちあがると、凄《すご》みある艶《つや》が漂った。  心の奥深くに訴えてくるような微笑だと秋生は思ったが、同じく、微笑の放射を浴びた俊輔の方は、また違う感覚に捕らわれた様子で、狭い空間では邪魔になるほどの身体を二、三度に亘《わた》って揺り動かした。  クリスの方はと言えば、新入りたちの反応にはもう興味を失ってしまい、鉄格子に引っかけておいた金貨のペンダントを取って頸《くび》から下げると、脱いだ服を置いた独房へ入ろうとしていた。 「そうだクリス。今夜はこいつらと夕食を食べて行け」  この時、クリスに向かって所長は、今まで、建て前としても、君たちと呼んでいた三人の新入りを、「こいつら」と称した。  これが、この男の本心なのだ。  判っていても、化けの皮が剥《は》がれる瞬間を見るのは誰にも気分のいいものではないが、賢《かしこ》くも、新入りの三人は無視することが出来た。  命令されたクリスの方は、首から下げている金貨を指でなぞりながら、そっけなく言った。 「夜は、予定が入ってるんだ」  言葉が終わるか終わらないかのうちに、所長が肉厚の手で、向かい合っているクリスの頬《ほお》を、勢いよく叩《はた》きつけていた。  暴力に極端に怯《おび》える由樹也が、自分が叩かれたように跳ねあがり、慄《ふる》えだした。  濡《ぬ》れた髪が舞って辺りに水飛沫《しぶき》が飛び散るのも構わず、所長は続けざまに、最初と同じ勢いのある平手打ちで、クリスのもう一方の頬を打った。 「こ、この私に逆らうのか、クリス」  奥歯を噛《か》みしめ、わきあがってくる激昂《げつこう》を押し殺しているような調子で所長は唸《うな》った。  錆《さ》びた鉄格子に寄り掛かったクリスは、打たれて赤くなった頬を庇《かば》うことも忘れ、豹変《ひようへん》した男を上目づかいに凝視《みつ》めている。  悪戯《いたずら》の過ぎた子猫が、飼い主に叱《しか》られている時のような眼だった。  まだ反抗的で、けれども、とても怯えている——…。  白い肌には、鮮やかに手の跡。  所長はふたたび腕を振りあげたが、ビクッとクリスが戦《おのの》くのを見て満足を得たのか、今度は、肉厚の手で彼の顎《あご》を掴《つか》みとり、壊さんばかりに揺さぶった。 「あんなに可愛《かわい》がってやってるのに、お前は、なんて悪い子なんだ?」  顎を押さえたのとは別の手で、所長はクリスの下肢を握った。 「ここの所長である私に、なんで逆らうんだ!」  クリスの綺麗《きれい》な形をした眉《まゆ》が顰《しか》められた。 「なんでパパを悲しませるんだァ」  眉間《みけん》に苦悶《くもん》の皺《しわ》が寄っている。彼が、所長からどんな暴力を受けているのか、気づけない、——判らない男はいなかった。  所長は掴んだクリスの下肢をてのひらに包み込み、圧迫し、潰《つぶ》そうとしているのだ。 「パパ……」  背後の鉄格子に上半身を預け、仰《の》け反ったクリスは、赤みのある口唇を顫《ふる》わせ、啜《すす》り泣くように喘《あえ》いだ。 「や…やめて……」  女のように高く、かぼそく、切なげな声がクリスから洩《も》れると、所長の方は、彼の顎を押さえていた手を背にまわし、さすりはじめた。 「許して……お願い、やめて……」 「私に逆らうなよ、クリス。いい子にしていろよ、クリス」  所長は、握り潰そうとしていた手を巧みに蠢《うごめ》かせながら、なだめる口調になってゆき、クリスから離れた。 「絶対に逆らうなよ、判ったな?」  途中から愛撫《あいぶ》に変わった手弄りを止められ、突き放されたクリスは、変化を隠しもせずに鉄格子に寄り掛かると、素直に答えた。 「判りました。所長先生」  仙北谷所長は、満足げに眼を細めながら自分の手際を見て頷《うなず》いた。 「そうだ。私に逆らうなよ。そうすれば何時《いつ》までも可愛がってやるぞ」  機嫌を直したと同時に思いだしたのか、突然に新入りの方へと向きなおった所長は、今までとはまた違う調子で怒鳴った。 「何を見てる。お前たちは一人ずつ檻《おり》に入れ、一人ずつだぞ、愚図愚図《ぐずぐず》するな」  急《せ》きたてられた秋生たちが独房に入ると、所長によって鉄格子の扉を閉められ、鍵《かぎ》を掛けられた。 「そこでおとなしくしてろよ」  所長はそう言うと、またも予定外に時間を使ってしまったとばかりに舌打ちをしてから、出ていった。  ドアが閉まった途端、クリスがシャワーを使っていたせいで、反省房の中は湿気が満ちているように感じられた。  だが、湿気があろうがなかろうが、寝棚しかない鉄格子の独房に閉じこめられたのだ。  不快な場所であるのには変わりがなかった。  その寝棚は、座っているだけでも尻《しり》が痛くなりそうな硬い板にキャンバス布を貼《は》っただけの代物で、持ちあげると、床に排泄《はいせつ》用の穴があり、木蓋《きぶた》が被《かぶ》せてあった。  普段、こんな所に入れられるのは、どんな罰の時なのだろうかと、秋生は憂えずにいられない。だが今は、向かい側の独房に入り、寝棚に置いたタオルで身体《からだ》を拭《ふ》いているクリスを、観察するように見た。  苛立《いらだ》つほどゆっくり身体を拭いたクリスは、大きめのTシャツを頭から被って着ると、下着をつけずに寝棚に座り、服の間に隠れていた缶ビールを取りだして飲みはじめた。  独房の中で缶ビールが飲めるとは意外だったが、クリスだけの特権かも知れなかった。  女のように綺麗な貌《かお》と素晴らしい肉体を持つクリスは、所長の寵愛《ちようあい》を受け、要領よく生きているのだ。  頭のよいヤツは、頭脳を使って賢く生きればいいのであり、腕力に自信があれば力ずくで道を切り開けばいい、美貌とセックスで特権を得るという方法も、自分のもてる能力を使うということなのだから…。  けれども秋生は、何時までもクリスを観賞してはいられなかった。 「ちくしょう、なんで鍵掛けられんだよッ」  予期したとおり、俊輔が怒りをあげ、クリスに向かって吼《ほ》えだしたのだ。 「おい、てめぇだけなんで鍵かかってないんだよ。あのジジイに、媚《こ》びてっからか? なーにが、パパ、やめて、許してだよ、情けねぇと思わねぇのかよ、胸糞悪《むなくそわ》りぃ」  俊輔は感じている嫌悪を剥《む》きだしに、クリスへと突っかかっていった。  クリスの方は、動じず、怒りもせずに、俊輔の相手になった。 「ああ見えても所長は精力絶倫の四十二歳だよ。それに、檻の方が安全なんだ。脱走者が出ると犬を放すが、お前たちはまだ犬に知られてないからな、喰《く》い殺されるかも知れないだろう」  寝棚を支える壁に寄り掛かったクリスは、片足の膝《ひざ》を曲げて立てた格好になり、新入りを揶揄《からか》い、挑発するようなポーズを取った。  まぎれもない男の肉体を見てしまった後でも、顔立ちと、誘うようなポーズを取られると、その暗がりの奥には女の部分が匿《かく》れているのではないかと錯覚してしまう。 「あんたは、どうして脱走者だと判ったんだ?」  頭の中に拡がってくる妄想を追い払うように、秋生はクリスに向かい、現実的な事柄を訊《き》いてみた。  廊下で警報を聞いた時、自分たちと入れ違いに相談室から監房へ入ったのだろうクリスは、ここでシャワーを浴びていたのではないかと思えるからだ。  所長は一言もいわなかったのに、彼は、なぜ脱走者が出たことを知る機会があったのだろうか?  秋生の問いに対しても、クリスは動じなかった。 「ここでサイレンが鳴るのは、喧嘩《けんか》か脱走だ。喧嘩くらいで、新入りを管理棟に泊めたりはしないからな」  飲み終わったビールの缶を潰《つぶ》して、クリスは寝棚から降りた。  と、そこへ、相談室から通じるドアが勢いよく開き、黒いつむじ風のような勢いで、二頭のドーベルマン・ピンシェルが飛び込んできた。  犬は、檻の中の秋生たちを見るなり、牙《きば》を剥き、唸りはじめた。  その憎しみに満ちた顔、鼻面に寄った皺、地獄の番犬ケルベロスはこんな顔をしているのではないかと思われるほどの凶悪さだった。 「いいんだ、こいつらは関係ない」  いつの間にかクリスが犬に近づき、声を掛け、頭を撫《な》でていた。  興奮していた犬の態度が鎮まって行くのが目に見えて判り、しまいに犬たちは、クリスに向かい、甘えた鼻声をたてはじめた。  クリスに撫でて貰《もら》い、それから命令して貰うのを待っているのだ。 「行けッ」  クリスは、鎮まった犬たちに命令した。  弾《はじ》かれたように、犬たちは押し開けてきたドアから外へ飛び出していった。 「ああいう犬が四頭飼われてる。頭はいいんだが、開けたドアを閉めていかないのが欠点だな」  冗談めかして言いながら、クリスは犬たちの代わりにドアを閉めに行った。  だが、彼がドアに手を掛けた時だった。  ドアは、外側から大きく、別の力で開かれ、今度は迷彩服を着た鳩屋《はとや》副所長が入ってきた。 「犬が来なかったか?」  反省房の中を見回し、犬が居ないことを確かめていながら、鳩屋は訊いた。 「新入りの匂《にお》いを嗅《か》ぎに来たけど、もう出ていったよ」  答えたクリスは、素早く鳩屋の前をすり抜け、自分用に選んだ独房へと戻ろうとしたが、キツネ顔の男は、後から追って入った。  二人が入るには独房のなかは酷《ひど》く狭い。けれども、目的のある鳩屋には構わないらしく、クリスは仕方なく寝棚に腰掛け、男を前に立たせた格好になった。  鳩屋は、所長と同じ動作でクリスの顎《あご》を掴《つか》むと、自分の前で自在に左右へと傾けながら、頬《ほお》の赤みを調べて言った。 「頬が赤い。所長に殴られたんだな?」  肌の白い人間は、叩《たた》かれたところが直《す》ぐに赤くなる。それは顔ばかりでなく全身にも言えるが、そのために撲《う》ちたくなる欲望を他人に喚起させてしまうか、罪悪感を感じさせるかで、クリスもそういう一人だった。 「また、殴られるようなことを言ったんだろう。殴られて、愉《たの》しいか?」  面白がっている様子の鳩屋に向かい、クリスは、うすい口唇をすっと引くようにしてつくった笑みを投げかけた。 「ひどいな、歓《よろこ》ばせてやってるだけなのに…」 「そうだな、所長にはご機嫌うるわしく居てもらった方が、私たちも暮らしやすいからな」 「だから、俺《おれ》が努力してるんじゃないか」  頭を振って手から顎を外したクリスに対し、鳩屋は独房にまで入った目的を口にした。 「私に対して努力するのも、損はしないと思うぞ」 「脱走者を捕まえなくていいのか?」  鳩屋は笑い顔になった。そして、新入りが聞いていることなど構わずに、——むしろ訊かせるつもりがあったのか、言った。 「判ってるだろう、この島からは絶対に逃げられない。海流に押し流され、戻ってくるのを待ってるだけでいいんだからな、慌てる必要など無いんだ」  島の周りを囲んでいた潮の流れが、手作りの筏《いかだ》など押し戻してしまうと鳩屋は言いたいのだろう。それよりも、副所長は、人差し指でクリスの口唇に触れると、愛撫《あいぶ》するように形をなぞってから、撫でまわし、口唇をこじ開けて、歯に爪先をあてた。 「舐《な》めろ」  押しあてられた鳩屋の指を、クリスが舌の先で舐めた。それから、上目で凝視《みつ》めながら、舌を、妖《あや》しい、淫《みだ》らな生き物のように蠢《うごめ》かせながら、しゃぶるように指を吸った。  鳩屋は口に含ませた指を使って、クリスの身体を寝棚から、流れるような動作で床へと跪《ひざまず》かせて行き、ズボンの前を開いて、欲望に半勃《はんだ》ちとなったものを顕《あら》わにした。  ——キツネにしては立派だ。秋生がそう思った鳩屋は、クリスの口唇に押しあてられ、人差し指とその地位を交替した。  官能的な赤みのある口唇が、男の勃起《ぼつき》を受け、吸うように銜《くわ》えていく。  クリスの巻き毛が揺らいだ時は、唾液《だえき》に濡《ぬ》れて怪《あや》しさを増した鳩屋が引き出されてくる時で、また、その全容がクリスの口腔《こうこう》へと吸い込まれて消える。  女のように綺麗《きれい》な貌のクリスが男の一物を銜える姿は、アダルトビデオに出てくる外人女がフェラチオしている様子にも見え、奇妙な興奮を起こさせるのだが、鳩屋の方はそれほど長くクリスに含ませてはおかなかった。  彼はクリスを鉄格子に向かって立たせると、彼が着ているTシャツの裾《すそ》から腕を差し入れ、吸いつくような手つきで身体を撫でまわしはじめたのだ。 「よせよ、こんな所で、あいつら、見てるのに」  鉄格子に掴まったクリスは、フェラチオだけでは済まなかったことで、拒絶を放った。 「見られる方が感じるだろ? それとも、今夜、新入り《あいつら》の相手をさせてやろうか?」 「いやだ」 「だったら気合い入れて、私を愉しませろ」  鳩屋は撫でまわしていた両手で双丘を掴み、左右へと押し開くと、クリスの中心に圧《お》しあて、一気に先端をもぐり込ませた。 「う——」  鉄格子に押しつけられたクリスの上体が歪《ゆが》み、しなりあがった。 「ううッ」  身を揉《も》みしぼるようにしならせ、歪ませたクリスの内では、鳩屋が締めつけられ、しぼられているのだろうが、いっそうの快楽をつくりだすために、男は動きだした。 「あッ! ああッ」  内臓をかき回される感触にクリスから声があがった。 「ああッ!」  金砂色の髪が振り乱され、身体がよじれながらのけぞりあがっている。鳩屋の動きに応じて、クリスが掴んでいる鉄格子が、ガチガチと音を立て、激しさと、力強さを、伝えて来た。 「あ、ああ…き…つい——…」  切迫した声がクリスからあがった。 「なにがきついんだ?」 「あんたの——は…、俺にはきつすぎる…っ…」  苦しみを訴える手段として、クリスは盛んに頭を振っている。 「所長なんかと比べて欲しくないぞ、クリス」  快感に濁った鳩屋の声が応《こた》え、腰使いがいっそう激しくなった。 「うう…んっ——」  犯されているクリスの、Tシャツを着て隠れている身体と、綺麗な貌《かお》は、女を連想させるのだから、長い禁欲生活に身を置いてきた秋生たちには、毒となった。  特に秋生は、全身に充《み》ちてくる欲望を感じてしまい、正面から立ち向かい、闘《たたか》い、ねじ伏せて抑えなければならなかった。 「うん、うん…、う…ん、う…んっ……」  目を閉じて見ないことにしたが、声と、音が聞こえてくる。激しく鉄格子の揺れる音と、押し殺されたうめき声のリズムが、何が行われているのかを克明に伝えてくるのだ。  その上、クリスの呻《うめ》きが、切ない吐息に変わるまで、それほど時間はかからなかった。 「あ…ああ、ああッ、いい……」  ふいにクリスが、あられもなく、とても重要な意味のある言葉を洩《も》らした。  驚いた秋生が目を開けると、鉄格子の中から眸《ひとみ》を光らせ、クリスも秋生を見ていた。  濃い睫毛《まつげ》に縁取られたクリスの双眸《そうぼう》は、白目の部分が純銀のように輝き、眸がまた金属的な煌《きら》めきを持った碧青色《ブルー・トパーズ》で、不思議な、強い魅力に満ちていた。  それは、畏《こわ》いような、けれども惹《ひ》き寄せられる眼であり、知性を隠した眼だった。  お互いに眼と眼が合った瞬間、秋生の見間違いでなければ、クリスは小さく、ウィンクしてみせ、それから、甘い音色のような声で喘《あえ》いだ。 「いっ……いい……」  秋生の視線を受けながら、次の瞬間から、クリスは白い炎と化し、さらなる快感を貪《むさぼ》ろうと積極的になった。 「い…いいっ……して、もっと…酷く…して……」  対して背後から貫いている鳩屋の表情には苦悶《くもん》が起こっている。だが、それは苦痛からではなく、やはり、感じている激しい快感からくるものだった。 「洗ったばかりなのに」  満足した鳩屋が出ていくと、クリスは独房から離れ、ふたたびシャワーを浴び、丁寧に身体《からだ》を洗った。 「オカマ野郎」  身体を拭《ふ》きながら独房へ戻ったクリスに向かって、俊輔は黙っていられなくなったらしく、嫌悪を剥《む》きだしにした。  軽蔑《けいべつ》のこもった俊輔の罵《ののし》りは、秋生と同じ根から発生したものだった。  俊輔はクリスを罵ることで、自分が欲情したという事実を、自分の裡《なか》から帳消しにしたいのだ。  クリスに対し、欲望を感じてしまった自分——というよりも、そんな風に自分を欲情させたクリスの方を嫌悪することで、許容出来ない感情から逃れたいと思ったのだ。  だがクリスの方は、俊輔を相手にはしなかった。  彼は、寝棚にあがると、シャワーの前に脱いだTシャツを着て、さっさと横になってしまったのだ。  それでも、しばらく俊輔はクリスに向かって挑発を続けていたが、まったく彼が乗ってこないのが判ると、今度は隣の独房にいる由樹也へ攻撃の矛先を向けた。 「さっきは知ったかぶりしやがって、なにがホーリーは柊《ひいらぎ》だよ。あのジジイは、聖な…るとかなんとか言ってたぞ、全然、てめぇの言ったのと違うだろぁが!」  コンクリートの壁を隔てて顔が見えないにも拘《かか》わらず、由樹也は怯《おび》えているらしく、すんすんと、鼻をすする音が聞こえてきた。 「いいか、今度、知ったかぶりしやがったら、鼻の骨へしおるからな」  さすがに、怒鳴りつけている相手の顔が見えないとやりずらいのか、俊輔は次第におとなしくなった。  秋生は、クリスマス・イヴには聖夜の意味もあるのだから、その時に飾る柊に聖なるという花言葉が付いていたとしてもおかしくはないと思ったが、黙っていた。  迷彩服の井藤は、島をたんに『ホーリー』といい、仙北谷所長は『聖なる』と言った。  所長の方が、ロマンチストかも知れなかった。  間もなく、夕食だと呼ばれ、檻《おり》から出された三人とクリスは、一階にある職員の食堂兼娯楽室に連れて行かれ、長細いテーブルに着席させられた。 「脱走者が出て君たちはついているんだよ。西村くんの料理は最高だからね」  ここでも所長は、最大限の恩着せがましさを発揮して、秋生たちを辟易《へきえき》させたが、食べた後は直《す》ぐに独房へと戻され、ふたたび鍵《かぎ》を掛けられてしまった。  そうなると、もう寝るしかなく、天井近くにある小さな窓から入ってくる波の音を聞きながら、秋生たちは疲れた身体を眠りに委《ゆだ》ねたのだ。  ところが夜中に、秋生は独房に入ってきた男の気配に気がつき、顔をあげた。  頬《ほお》に傷のある佐古田だった。  男の顔を見た瞬間に、何をされるのかが判り、秋生は全身が強張《こわば》るのを感じた。  咄嗟《とつさ》に向かい側の檻を見たが、クリスはいなかった。  どこへ行ったのか、いつ出ていったのか、まったく気がつかなかった。 「立ってズボンを脱げ」  命令されたが、頭《かぶり》を振って秋生は拒絶した。  すると、脇腹《わきばら》にドンと衝撃が走り、ビリビリッと身体が痺《しび》れ、そのまま床にずり落ちてしまった。  佐古田が隠し持っていた電子警棒から、電気を流されたのだ。 「待ってくれ…」と言おうとしたが、起きあがる前に警棒からは第二波が放たれた。  声も立てられず、秋生は床上で痙攣《けいれん》を起こした。 「もう二、三発やられたいか? そうすりゃ身体中の孔《あな》がひらいて、俺《おれ》はやりやすくなるんだがな」  タバコ臭い息を吹きかけられながらの脅しは、充分だった。  殴られたり、蹴《け》られたりする痛みに対しては耐性が出来ても、身体に電気を流されるのには、心臓がまず根をあげ、壊れそうだと痛みを訴えてくる。  心臓が弱音を吐くと、身体は楽になろうと、意志の力やプライドなどを手放してしまうらしい。それからの佐古田は、一言も喋《しやべ》らなかったが、動作で秋生を従わせることができたのだ。  秋生は、立たせられて、寝棚を吊《つ》った壁に両手を伸ばして掴《つか》まらせられると、ズボンを下ろされていた。  うしろにゼリーのようなものを塗られ、まずは指が入ってきた。  口唇を噛《か》んで、その、膝《ひざ》が頽《くずお》れてしまいそうなほどの、あの、ちょうど貧血をおこしかけた時にも感じる、身体から力が抜けていく感触を味わわされた直後に、いきなり、硬い欲望の肉によって刺し貫かれた。  欲望に膨れあがった灼熱《しやくねつ》の塊が、秋生の内へ入ってきたのだ。 「………ッ」  かろうじて声を怺《こら》えたのは、他の二人に知られたくないという本能からだった。  暴走族にいた時も、少年院でも、男同士の性交があるのを知らないわけではなかった。  現に、クリスと鳩屋を見て、興奮もした。  だが秋生は、自分には関係ない世界のように思って、ビデオやテレビを観ているのと同じ感覚で興奮しただけなのだと、体験させられて判った。  次に佐古田が身を退《ひ》き、秋生の内臓を擦《こす》って抜《ぬ》き取りかけ、ふたたび挿入してきた時には、眼から火花が出そうなくらいの激痛と屈辱に、秋生は呻いた。  呻かずにいられなかった。  容赦なく、佐古田が動きはじめた。  犯される苦痛と屈辱の中で、秋生は、クリスのことを思った。  ———どういう方法をとれば、自分の裡から何を閉め出し、何を受け入れれば、この行為を快感に変えることができるのだろうか?  佐古田の手が、秋生の双丘を撫《な》で、掴み、締まった肉をこね回していた。  秋生は、尻肉をさする男の手が、身体の前に回ってくれれば、この苦痛もまだしも癒《いや》されるのではないか…と、頭のどこかで考えていた。  実際にそうされて、もしも射精してしまったならば、その時こそ秋生は立ち直れないほど自己嫌悪に陥るだろうと判ってもいたが、現在の苦痛から逃れたいために、頭の中ではそこまで追い詰められていた。  だが、いきなり身体の奥を侵略していた佐古田の肉塊がすごい勢いで膨れあがり、秋生は熱いものが叩《たた》きつけられるのを感じた。  佐古田が、どくん、どくんと、脈打ちながら、快感をしぼっているのが感じられる。  息をするのも苦しく、屈辱感でいっぱいだったが、秋生は怺え続けた。  最後まで怺えていると、やがて抜き取られた。  秋生がじっと立っている間に、佐古田は素早く自分の後始末をすませ、出ていった。  鉄格子の鍵が掛けられ、外のドアが閉まる音を聞いてから、ようやく秋生は、壁に付いた手を離すことができた。  下肢がガクガクと慄《ふる》え、力が入らなくなっていたが、力を振り絞るようにして、貰《もら》ったトイレットペーパーで塗りつけられたゼリーと、にじみ出てくるものの始末をつけ、下着とズボンを穿《は》いた。  それから寝棚に横になり、次にまた誰かが来るのではないかと警戒して身体を強張らせていたが、しばらくしてから、隣の独房から誰かが出ていく音が聞こえただけだった。  目を合わせないように、寝たふりをしてやり過ごした。  由樹也も、俊輔も、新入りが餌食《えじき》になった夜、クリスは戻ってこなかった。  第二章 島という檻に閉じこめられた獣たち  一夜明けても、島にいるのは現実の出来事で、夢ではなかった。  秋生たち三人は朝食を食べた後、鳩屋《はとや》副所長と井藤《いとう》に挟まれ、これから暮らす宿舎へと追い立てられた。  佐古田の姿はなかった。  それだけでも秋生はホッとした。昨夜の屈辱と苦痛は決して忘れられないと思っていたので、朝、佐古田と会った時、自分がどういう行動にでるか予測できなかったのだ。  殴りかかってしまうかも知れない。それとも、恐怖を感じ怯《おび》えてしまうかも知れない——…。  この時、秋生は、自制心を持たなければならないと、強く決心した。  灯台のある管理棟から宿舎の間には、明らかに植林されて出来たと思われる松林があり、形ばかりだが二つの世界、——支配する者と支配される者とを分ける衝立《ついたて》となっていた。  松林をぬけて下っていくと、全体が凸型になった二階建ての宿舎が見えてきた。  海からの潮風に曝《さら》され続けてきたのだろう建物は、傷みが激しかった。  建築されたばかりの頃には彩色されていたらしい窓枠や板張りは、かすかにその名残をとどめているだけで、宿舎全体は、古い時代の写真などで見る山の分校といった感じだった。  二階端の窓が開いていて、何時《いつ》の間に管理棟から帰ったのか、クリスの姿があった。  秋生は、一瞬だけクリスと視線を合わせたが、彼の碧い眸《ひとみ》に、昨夜の出来事を見透かされるような気がしてしまい、目をそらすと、急ぎ足になった。  間もなく、秋生たちは、凸型の中心部分にある玄関から土足であがると、井藤が開けた扉を潜り、ここに住む少年たちの、食堂であり、娯楽室であり、集会場として使われている大きなホールに入った。  ホールの中では、様々な服装に身を包み、個性的な容貌《ようぼう》と体躯《たいく》、荒《すさ》んだ心の表れであるかのように鋭い眼光を持った先住者たちが、全員整列して、新入りの到着を待っていた。  わずか数秒前まで、二階の窓にいたと思われるクリスの姿も見える。  鳩屋が、全員を前に、三人の新入りを順に紹介した。  名前を呼ばれ、前へ出て頭を下げるだけだったが、一通り終わってしまうと、寮生の間から、長髪に銀縁眼鏡を掛けた、痩《や》せぎすの少年が出てきた。 「僕が寮長の圭《けい》です。君たちを歓迎します」  眼鏡が重そうに見えるほど頬の痩《こ》けた少年は、消え入りそうな声で言い、後ろに並んだ寮生たちを紹介しはじめた。  紹介といっても鳩屋のやり方と同じで、十三人いる寮生の名を端から呼びあげるだけだった。  特に目立ったのは、シャツから剥《む》きだしになった腕が傷だらけの大男だった。玄蔵《げんぞう》と紹介された大男は、腕の傷に劣らず、顔つきにも凶悪さと、普通でないものが混じっていて、主従関係にあるのだろうスキンヘッドの大介《だいすけ》と、肥満体の朗《ロウ》を従えていた。  玄蔵を間に立っている二人の様子を見て主従関係を判断できるのは、秋生がずっと、そういう上下関係のある環境に身を置いていたからだ。  他には、顔中が雀斑《そばかす》だらけのヒロと、ショートヘアの女の子に見える南《みなみ》という少年。  そして、陽光と潮風で褐色に灼《や》けた少年たちばかりの中で、まっ白い猫みたいに輝いているクリス。  クリスの横に立っている男は、海人《かいと》と呼ばれた。  海人は、口許《くちもと》から顎《あご》にかけてまばらに髭《ひげ》をはやした、精悍《せいかん》な顔つきと、筋肉でつくられたような肉体がシャツの上からも見てとれるほどの男で、年の頃は二十歳前後といった感じだった。  秋生が、一度で名前を覚えられたのはこの数人だけだったが、他にも、印象的な少年ばかりだった。  彼等を見ていると、何種類もの動物、——兎からライオン、キリンに蛇、ダチョウや、鮫《さめ》に恐竜などを、ひとつの檻《おり》に入れたようにも思われた。  よくも喧嘩《けんか》にならず、喰《く》いあわないのが不思議なくらいだ。  だが、鳩屋と井藤がいなくなった途端に、喰われるのは新入りの自分たちであると、秋生は気づかされた。  たちまち、玄蔵と二人の部下に取り囲まれた新入り三人は、持っていた荷物を開けられ、めぼしい品々を奪われてしまったのだ。  荷物から品々が奪われている間、俊輔《しゆんすけ》はずっと怒っていたが、暴れはしなかった。  由樹也《ゆきや》は、例によって泣いていただけだった。  秋生は、半ばどうにでもなれという気持ちで、ホールの中を見回していた。  ホールは三十畳ほどの大きさで、奥には暖炉があった。  右側の壁には、厨房《ちゆうぼう》で作られた食事が差し出されるカウンター。それから、暖炉を囲むように、食事を摂《と》ったり、休憩したりするための大きなテーブルが四台と、古い木製の椅子《いす》が並んでいる。  左の壁には二階へと通じる階段があるので、ホール全体の窓は少なく、昼間でも薄暗かった。  多分、潮風を避けるために極力窓を廃し、せいぜいが明かりとりのためにと、天井近くに付けたからだろうが、その窓も、ガラスではなく、透明なビニールが張ってあるのだ。  略奪に加わらなかった寮生たちは、早々に部屋へと引き揚げてしまったのか、誰も残っていなかった。  結局、この略奪では、秋生の被害が一番少なかった。  スポーツバッグに入っていた衣類の半分と、トイレットペーパーを奪われただけで、少年院で着ていた衣類や、所長から下賜《かし》された他の品は無事だった。  持ってきた物も少なかったが、真壁が用意した最低限の品は、物不足に喘《あえ》いでいる彼等の意欲をもそそらなかったのだ。 「部屋へ案内するから、こっちへ来てくれ…」  やがて、軽くなったバッグを返された三人に、黙って略奪を許していた寮長の圭が口を開いた。  宿舎の二階は、ほぼ一直線に九つの部屋が並んでいる。  先に歩いていた圭は、左端から二枚目のドアで立ち止まった。 「君たちの部屋だ。今日はゆっくりしてていい。嘆いていられるのは今日だけだからね。それと、所長にも言われただろうが、ここでは言葉遣いには気をつけ、相手に不快を与えないよう心がけるんだ」 「不快ってなぁ、どんな言葉を言うんだよ」  俊輔が絡《から》む口調で言った。 「今みたいな言葉だね。もう一度言っておくが、言葉遣いだけでもトラブルが起こる。僕の忠告を忘れないことだね」  三人をいっそう滅入《めい》らせるに充分なほど、圭は陰気な声で言うと、身を退《ひ》き、自分の部屋へ戻って行った。 「なんだよ、あいつッ」  最初にドアを開けたのは、せっかちな俊輔だった。  開けた瞬間、酷い部屋であるのが判った。  窓にはガラスがなく、代わりに、ホールと同じ透明のビニールが釘《くぎ》で打ち付けられていたのだ。  光は取り入れられるが、窓は開けられない。天井に付いた電灯も、昔の二股《ふたまた》ソケットの物だったが、最悪なのは、なにもそんなことばかりではなかった。  部屋の広さは十畳ほどしかなく、そこに鉄パイプ製のベッドが三台押し込められていて、元々二人部屋なのだろう、壁には作りつけのオープンロッカーが二つあるだけだったのだ。  当然のように、俊輔が奥のベッドを陣取り、それから由樹也が真ん中、秋生だけがロッカーもないドア近くのベッドを割り当てられた。 「おめぇはよ、農場で働かなかっただろう? その分楽してきたんだし、荷物も少ねぇからな、そこでいいのさ」  俊輔の言い分はそうだった。  秋生は、言い争うのを避け、とりあえずは従うことにしたが、誰が使っていたのか判らないベッドの寝具を見て、横になってよいものなのか、戸惑った。  シーツや毛布を洗うことが出来るだろうかなどと考えている秋生の隣で、自分のベッドに腰掛けた由樹也が、すすり泣くような声で話しかけてきた。 「僕たちのいた農場は長野県のどこかにあったと思うんです…」 「なんだって?」  秋生が聞いてやろうとする素振りを見せると、由樹也は勇気を出した様子で続けた。 「僕たちが乗せられたヘリコプターだと、給油なしの飛行距離は七百キロくらいなんです。僕、ヘリとかセスナとか好きだから、少しは知ってるんです。でも帰りもあるから半分の距離と考えて、長野から海に出て三百キロ以内にこの島はあるんだと思うんです。たぶん日本海側のどこかだと…」  ヘリに乗っている間中、俊輔は怒っているだけだった。秋生も、別の悲しみと怒りに心をとらわれていたのに、ずっと泣いてばかりだった由樹也が、一番まともなことを考えていたのだ。  しかし、日本海側にある島でもっとも大陸に近いのは海女《あま》で有名な舳倉島《へくらじま》だが、その島でも、能登半島から五十キロほどの距離で、三百キロといわれては、秋生にも見当はつかなかった。 「だから?」  考えれば考えるほど現状に絶望を感じる秋生とは違い、由樹也の方は希望を持っている様子だった。 「逃げる時のために、この島の位置をもっと知りたいんです」  聞き耳を立てていた俊輔が、呆《あき》れたように由樹也の希望的観測を遮った。 「馬鹿野郎ッ、逃げれるわけねえだろッ。海の真ん中だぜ。船があっても無理だ」 「ほんと、逃げらんないよ」  別の声が、俊輔に加勢した。  声のした方を見ると、薄く開いたドアの所に、雀斑《そばかす》だらけのヒロが立っていた。 「なんだよ、ノックもなしかよ」  俊輔が凄《すご》んだが、ヒロは、にやにや笑いながら、可愛い顔立ちの南を連れて、新入りの部屋に入ってきた。 「ドアなら開いてたよ」  南が、外見と同じく、甲高い、甘ったれた声で言った。 「さっきも紹介されたけど、俺《おれ》はヒロ、こっちは南。隣の部屋なんだ、よろしく」  ぼさぼさの髪、雀斑だらけの冴《さ》えない容貌のヒロは、アロハシャツを着て、首から貝殻を繋《つな》いだネックレスを下げているが、下はネイビー色の作業ズボンだった。 「よろしくね」  指をヒラヒラさせ、可愛らしく言った南の方も、Tシャツと作業ズボンを穿《は》いていたが、どこから見ても、女の子に見えた。  秋生たちが話の接《つ》ぎ穂《ほ》を探している間に、ふたたびヒロが喋《しやべ》りはじめた。 「島の周りに風力発電用の風車があるだろう? あの支柱には、脱走や外部からの侵入を検出するセンサーが付いてるんだ。スイッチが入るのは夜の間だけなんだけどさ、通り抜けた途端にサイレンが鳴るんだよ。昼間は灯台から島が全部見えるし、海には海流があるし、どうやっても逃げらんないんだ」 「昨日、逃げた奴《やつ》がいるだろう?」  秋生がそう言うと、ヒロは肩をすくめて見せた。 「逃げらんないよ、絶対に。その証拠に、管理棟の奴ら慌ててなかっただろう? 今までだって何人も試したけど、成功した奴はいないんだ」 「だったら、あの所長が帰っていいと言うまで俺たちは島にいなきゃならないのか?」  突然、ヒロが笑い出した。  秋生は、自分が何か間違ったことを言ったのかと、不安になり、次第に、笑い続けるヒロに腹が立ってきた。 「ごめん、ごめん…。そっか、奴らの話、マトモに信じちゃってんだ。へええ〜」 「どういう意味だ?」 「あんたたち、自分がこの島に連れてこられた理由を知らないのか? 俺たちは、島流しにされたんだぜ」 「で、でも…何時《いつ》かは、帰れるんでしょう?」  さっきまで逃げることを考えていた由樹也も、不可能だと聞かされ、もう一つの希望へとすがろうとしたが、あっさり、ヒロは否定した。 「実の親や、被害者の親たちが、少年法で裁けなかった俺たちを闇《やみ》の保護司に密告してこの島へ送り、隔離したんだぜ」 「闇の保護司?」  冗談かと思い、秋生が訊《き》き返すと、ヒロは、少しばかりおどけた調子で続けた。 「あの農場の奴らさ、まさか、本物の保護司だなんて思ってないよな?」 「嘘《うそ》だよッ。所長先生は、ここで少し働けば家族の所に戻れるって言ったよ」 「えっと、由樹也だっけ? お前にその家族はいるか? 帰れる場所はあるんか? ないだろ? だって家族が手引きして俺たちをここに送ったんだからな。二度と、戻ってくるなってことでさ」 「嘘だよッ」 「うるせぇ」  泣き声をあげた由樹也を、俊輔が怒鳴った。 「だから言ったろ、俺たちは棄てられたんだって、なんで認めないんだよ、てめぇはよ」  農場で一緒に働かされていた時から俊輔に暴力を振るわれていたのだろう由樹也は、怒鳴られた途端に、怯《おび》えのあまり、涙まで止まってしまったようだ。 「帰れないのは本当か?」  秋生が念を入れて、ヒロに訊き返した。 「うん。所長たちは都合よく言ってるけど、帰れた奴はいないし、帰すつもりもないんだ。だって、この島でやってるのは、ヤバイことだらけだからな」  秘密を共有する者同士として、ヒロと南がお互いの顔を見て、頷《うなず》きあった。 「なんだよ、ヤバイことって」  一瞬頭をかすめたのはライフル銃だったが、上目づかいになったヒロが、秋生に対してだけでなく、新入り三人に聞こえるように言った言葉は、予期せぬ言葉だった。 「島にいっぱいあるハウスん中で作ってるのは何だと思う? メロンやイチゴじゃないぜ、サボテンなんだ。それも、ゴッドハンドって呼ばれる新種のサボテンでさ、どっかの研究所が遺伝子操作かなんかして創《つく》ったのかな、難しいことは判んないけど、麻薬や覚醒剤《かくせいざい》みたいな効果を持ったサボテンなんだってさ。俺たちはそれを育てて、二ヵ月ごとに来るヘリに積んで本土へ送ってるのさ」 「そんなことしていいのか?」 「いいわけないだろう。でもさ、ここは誰も知らない個人の島なんだぜ。昔々、どっかの人徳者が本気で子供の教育のためとかで島を買って学校を造ったんだってさ。この建物が学校だったんだけどな、だんだん借金が膨らんで島を手放さなきゃならなくなった。それが回り回って暴力団の手に入っちまった。なあ、あの所長とかいってる奴らみんな暴力団の関係者なんだぜ。それでもって俺たちは、奴らの資金源を作ってるのさ」  秋生たち新入りはみな、言葉を失っていた。 「そんなもの作ってる俺らを、無事に帰すはずないだろう?」 「信じらんない」  呻《うめ》いた由樹也を押しのけるようにして俊輔が怒鳴った。 「なんで、こんなとこで諦《あきら》めてんだ? おめぇら、逃げないのかよ」  いままで何かとふてくされていた彼も、ヒロの言葉に、さすがに足掻《あが》かずにいられない衝撃を受けたのだ。 「っていうかぁ、逃げれたらとっくに逃げてるよ。でも逃げらんない。あいつら、ライフル持ってるだろ? 職員のやつらは拳銃《けんじゆう》持ってるしな、何時でも俺たちを殺す用意はできてるんだ。代わりはいくらでもいるからな」  脇《わき》から南が口を挟んできた。 「でもね、もしかしたら警察の手入れがあって、僕たちを見つけてもらえるかも知れないし、大きな船が来たら助けてもらえるかも知れないからね」  小首を傾げた南の仕草は無邪気に見える。少なくとも彼は希望を持っているのだと判ったが、またもヒロが横から否定してしまった。 「俺は一年半ここにいて、そんな船が通るのも見たことないぜ」  由樹也がすすり泣きはじめた。 「嘘だろう…。嘘だ、なんで俺がそんなところに送られなければならないんだ? なんで、なにひとつ知らされずに、騙《だま》されるようにして、嘘だろう? なんで……」  つい洩《も》れてしまった秋生の呟《つぶや》きが耳に入ったのか、ヒロは、諭すように言った。 「今さら狼狽《うろた》えたり、泣いてても仕方ないだろう? もうあんたらは島にいるんだからな。それよりも宿舎の中を案内しがてら、やってもらう仕事を説明するよ」  冷めた調子のヒロを補うように、南が可愛《かわい》らしく付け加えた。 「ほら、引っ越したら隣近所に挨拶《あいさつ》するでしょう? 顔見せも兼ねて、仲良くやっていくために挨拶だけはしとかなきゃね」  一体|何時頃《いつごろ》から島にいて、どれほど馴染《なじ》んでいるのだろうかと不思議になるほど、南という美少年は無邪気だ。  それに、もう全員に会い、さらにその何人かには、荷物からめぼしいものを奪われているのだが、「挨拶しとかないと、色々まずいことが起こるかもな」と言ったヒロの言葉に、新入り三人は従わざるを得なかった。  二階部分は、全部で九つの部屋がある。  左端がヒロと南の部屋で、隣が秋生たち新入りの部屋、続いて圭は一人で部屋を使い、食事係の真一郎と亮祐《りようすけ》が同室、玄蔵も一人部屋で、大介と朗は二人で一室、農業担当の隆吾《りゆうご》に弘《ひろし》と直之《なおゆき》の三人は同室で、隣が海人の部屋、最初に見た右端の窓がクリスの部屋だった。 「だいたい、島に一緒に来た者同士が同じ部屋になるし、同じ仕事になるんだ」  五人は連れだって歩き、一部屋ずつ訪ねて挨拶を済ませていったが、圭は挨拶は不要とドアを開けなかった。  真一郎《しんいちろう》と亮祐《りようすけ》は不在で、玄蔵の部屋では、つるんでいる大介と朗が、新入りから巻きあげた品物を賭《か》けて花札をしていた。  秋生たちの前の新入りだった、隆吾と、弘と、直之も、部屋でトランプをしていたが、新入りの挨拶を受けて、ようやく自分たちが優位に立てる機会が来たことを喜んでいる様子だった。  海人の部屋では、ベッドの上にクリスが寝そべっていた。  部屋の主の海人はその枕元《まくらもと》の床に座り、まるで恋人同士のような光景だった。  すべての部屋を覗《のぞ》いた訳ではなかったが、部屋は、不自由さのなかでもそれぞれの個性を持ち、人間性を主張していた。  ただ、圭、玄蔵、海人、クリスの四人が一人で部屋を使っているために、残りの五部屋を複数で使わなければならないという不公平な状態であることも知った。  けれども不公平は、ヒエラルヒーの最下層にいるから感じることで、いつか自分の地位が上がれば、快適な一人部屋となれるのだという希望にもなるのだ。  食堂ホールを中心とした一階部分の右棟には、厨房《ちゆうぼう》と食品倉庫、物置があり、先ほど、部屋にいなかった二人の少年が、黙々と荷物を運んでいた。 「真一郎と亮祐の二人だ。あいつらは食事係で、向こうにいるのがコックの李《リ》さんだ」  ヒロは李という小柄な男を敬称をつけて呼んだ。気むずかしい顔の李は、白髪の老人で、ヒロを見るなり、嗄《しやが》れ声で怒鳴った。 「貯蔵庫、入るな、お前、ダメ」  李の叫びとともに、真一郎と亮祐も警戒した視線を向けてきた。  真一郎は獅子鼻《ししばな》のずんぐりした大男だったが、亮祐の方は小柄な色白の少年で、昨日、ヘリのところで手伝っていた二人だった。 「判ってるよ。新入りを案内してるだけだ」  ヒロは怒鳴り返すと、秋生たちの方に向きなおり、いくぶんか声を落とした。 「昨日のヘリで食糧品が届いたから貯蔵庫や冷凍庫に運んでるんだ。交替もないし、食事係になれるのは幸運なんだぜ。当番制にすると、料理下手な奴《やつ》とか食糧を盗む奴とかもいるからな。あの二人に決めて、責任もたせてるんだ」  米や小麦、肉、調味料、缶詰、果物、乾燥果物、色々なものが箱単位で運び込まれてきて、なんとなく、何時《いつ》までも見ていたい光景のような気がした。  だが五人はホールに戻り、今度は左棟へ向かった。  左棟にはトイレと、一度に何人もが並んで使える長い洗面台があり、続いて洗濯室と浴室になっていた。  浴室は、廊下側からも、洗濯室からも入れるようにドアが付いていたが、洗濯室の方に取りつけられたドアの意味は、風呂《ふろ》の残り湯を使って洗濯をするためだった。  ちょうど秋生たちの入れられた部屋の下が洗濯室に当たるためではないが、洗濯は新入りの仕事だと言われた。  タイル張りの浴室は、脱衣所も含め、町の銭湯を思わせる広さと大きさで、富士山の壁画でもあれば完璧《かんぺき》だったが、代わりにガラス窓がついていて、光が採れるようになっていた。 「島には燃料がないから風呂は一日おきだけど、水風呂でよければ毎日入ってもいいぜ。石鹸《せつけん》は貰《もら》っただろう? 自分のは自分で使うんだ。なくなったら圭に言って貰うんだけど、あいつ、簡単にはくれないぜ」  ヒロは、浴室から洗濯室へ通じる方のドアを使って移動すると、洗濯場の奥にあるもう一枚のドアをあけた。  そこは風呂の焚《た》き口で、大きな鋳物《いもの》の風|釜《がま》が見え、薪として使う木ぎれが積んであった。 「薪は海岸へ行って流木を集め、ためておくんだ。風呂を沸かすのは新入りの仕事だから、後で本当に沸かす時に説明するよ」  話を聞いているうちに、鍋《なべ》を叩《たた》くような音が聞こえてきて、ハッと南が顔をあげた。 「昼だよ。昼ご飯の鐘だよ。ホールへ行こう」  昼食の載ったトレイを受けとった秋生たちは、ヒロと南と一緒にひとつのテーブルについて食事を摂《と》った。 「どこに座ってもいいんだけどさ、しばらくは俺《おれ》たちと一緒の方がいいな。もともと新入りは待遇が悪いのも仕方ないんだけど、ついてた方だぜ。昨日のうちに二人減って、その分の余裕があるからな。でなきゃお前たちは寝る部屋もなかったんだぜ」 「部屋がなきゃどうなるんだよ」 「このホールの隅で寝るしかないだろうな」  俊輔とヒロのやりとりを聞きながら、秋生は周りを見回した。  玄蔵と、彼の腰巾着《こしぎんちやく》がひとつのテーブルを占領していた。それから、クリスと海人もひとつのテーブル。隆吾、弘、直之は三人でひとつを使い、最後にやってきた圭は、カウンターから自分の食事を取ると、秋生たちの所にやってきた。  食事係の二人と李は、先に食べたのか、席に着かなかった。  昼食は、チャーハンとミルクだった。食器はアルマイトの皿で、脱脂粉乳を溶かしたミルクは、ジャムの空き瓶がコップのかわりとして使われていた。  野菜と細かい肉片が入ったチャーハンは、味付けは濃いめだが、まずくはなかった。 「職員のみんなが暴力団関係だっていっただろう? 李さんも、訳ありのコックなのさ」  ヒロが声を落として、教えてくれた。 「管理棟の西村だってそうだけど、なんか、娑婆《しやば》でトラブルを起こしたかで、俺たちみたいに連れてこられて、働かされてるのさ。戻れない事情があるんだろうな」 「ねえ、食べたら、今度は農場を案内するよ」  そう言った南の声が聞こえたのか、別のテーブルにいたクリスが顔をあげ、視線を向けてきた。  クリスの碧《あお》い眸《ひとみ》が、秋生を注視している。  隣にいる海人が、所有権を主張するかのようにクリスの首に腕をかけ、抱き寄せると、秋生に対し挑戦的な笑いを送ってきた。  男らしく整った海人の顔は、顎《あご》にまばらな髭《ひげ》があるせいでいっそう迫力があり、喧嘩《けんか》するにはやっかいな相手だというのは、身体《からだ》を見ても、好戦的な表情を見ても判る。  反してクリスは、美貌《びぼう》と淫乱《いんらん》さで巧みに世渡りしている生き物に見える。  二人は恋人同士なのだろうか? と思った秋生だが、彼がクリスを意識してしまうのには理由があった。  昨日、所長や副所長との関係を見させられたせいだった。  同じ体験をして、なぜ自分は、酷《ひど》く屈辱を感じ、苦痛だけしか残らないのかが判らず、秋生はクリスから答えを欲しいと思っているのだ。  ——どうしたら、あの行為を受け入れ、快感に変えることが出来るのか。 「昨日逃げたのは畑係の徹《とおる》と正巳《まさみ》だけど…」  ヒロの話を聞こうとするように、秋生は視線を戻した。 「…あいつら、畑仕事の合間に逃げるための船造ってたんだな」 「逃げられるわけもないのに、馬鹿な奴らだ」  突然、圭が憎しみをこめた調子で言うと、食器を持って立ちあがり、カウンターへ戻しに行った。  圭の姿が見えなくなるまで待ってから、ヒロがいっそう声を落とした。 「あいつには気をつけろよ。あんな、根暗《ねくら》でひ弱な感じなのに、アブナイ奴なんだ。中学生の頃からかな、何人も殺してるのさ、殺した人間の身体から臓器を出して並べてた所を捕まったんだぜ」  被害にあった子供のような顔つきで、南が口をはさんだ。 「パーツを調べてるんだって言ったんだよね。有名な話だよ」 「それで何年も医療少年院に入ってたけど、被害者の家族がここに送るように手配したのさ。世間じゃ、まだ病院に入ってることになってるのかもな」 「長くいるのか?」 「結構長いはずだぜ。三年以上いるな。十九歳だけど、そう見えないほど老けてるだろ」 「なんで、そんなこと、色々教えてくれるんだ? 親切で言ってるのか?」  最初から感じていた疑問を吐き出した秋生を、ヒロが横目に見て、雀斑《そばかす》の顔をくしゃっとさせた。 「俺って親切なんだぜ…というのは、当たってるけどさ、ほんと言うと、これ以上人口が減るのが困るんだ。仕事が大変になるからな。だから生き残るために、ちょっとしたアドバイスをしてるのさ、安全に生きていくために、ここでは誰が一番危険なのか、なにが、そいつの地雷源なのかを知っておく必要があるんだ」 「地雷か」  巧《うま》いことを言うと秋生は思った。 「そう、どこに隠れてるか判んないが、そいつがキレちまうボタンを押さないように、踏まないようにするのが大切なんだ。例えば玄蔵は、自分のことバカって言った奴を殺すことにしてるし、大介たちも似たようなもんだ」 「人は本当のことを言われると怒るじゃない。だから、バカにバカって言っちゃいけないんだよ」  南が付け加えると、俊輔が挑戦的な口調になった。 「オカマに、オカマって言ってもいけないのか?」 「言われて嬉《うれ》しい奴以外なら、怒るんじゃないのか?」  誰を指して言っているのか判った様子で、ヒロが曖昧《あいまい》に答えた。 「さあ、宿舎の外を案内するぜ」  ヒロが全員を促し、立ちあがらせた。  宿舎の外へ出て見ると、視界のほとんどを白いハウスに遮られてしまい、海も見えなかった。  乳白色の強化ビニールを被覆《ひふく》したハウスは全部で三十棟あり、ハウスとハウスの間にとった通路の半分が、海風を避けた畑に使われていた。 「風が強いんで、傷みやすい葉ものは窪地《くぼち》かハウスの間に作るしかないんだ。野菜は自給自足だから、作れる物なら何でもつくるんだ」  少し歩くと、ハウスの間に近代的なコンクリートの建物が二棟見えた。  発電所と乾燥室だとヒロは説明した。 「一人部屋の奴《やつ》らと、大介と朗の六人がそれぞれ五つのハウスを受け持ってるんだ。ハウス係は楽だし、一番幸せだな。自分のハウスで出来たブツがよければ、それなりの恩恵もあるしな」  秋生には、麻薬のようなサボテンというのが想像できなかった。と言うよりは、自分が想像しているものと同じかを確かめたいと思った。 「ハウスの中を見学させてくれないのか?」 「ダメだよ。他人が管理してるハウスには勝手に立ち入らないのがここの掟《おきて》なんだ。温度管理とか、微妙なものがあるしな、それに見ない方がいいぜ、見れば、今度は試したくなる」 「そのゴッドハンドを?」 「ゴッドハンドに手え出すと、マジで所長たちに殺されるぜ。なんつっても、乾燥させたもの一つで何百万にもなるらしいからな。でも花が咲くんだ。火が燃えあがったみたいな形の赤い花が咲くから、その花を喰《く》うだけで天国まで飛んでけるらしいぜ」 「中毒にならないのかよ?」  黙って聞いていた俊輔がいきなり口をはさんだ。 「なるさ、花だって麻薬みたいなもんだからな、現に玄蔵はもう中毒になってるぜ。あいつの凶暴性はそっから来てる。でもな、あいつは俺たちの中じゃ一番古いんじゃないかな、何年もここで働かされてると、無駄と判っても筏《いかだ》とか造って逃げるか、気持ちだけでも楽になれるゴッドハンドに手を出すかだな……」  不意にヒロはハウスに凭《もた》れかかって目を閉じ、ため息を洩《も》らすように言った。 「中毒者になって死ぬか、脱走して死ぬか、病気で死ぬか、怪我《けが》でも死ぬ、喧嘩でも死ぬ、俺たちはここで死ぬしかない運命なんだから……」  なんとかして島から逃げたい。船が駄目ならば、ヘリコプターに乗ることは出来ないだろうか…と秋生は考え、管理棟の男たちが持つという銃や、ライフルが頭に浮かんだ。  つまりは、不可能なのだ。  秋生は、自分の一年後、二年後、三年後へと想像を巡らせたが、絶望的な気持ちが顔に表れてしまったのか、目を開けたヒロに突っ込まれた。 「でもな、そんなんでも生きてかなきゃならないんだ。狭い島で、一人一人が仕事をしないと、みんなが困るんだ。捨て鉢になってる奴がいたら、殺しても誰も文句は言わない。そいつに足を引っ張られんのはいやだからな」  先に南の希望を否定したヒロだが、生への強い執着をみせたところからも、彼もまた、望みを持っているのだと判った。 「ここで暮らしていくのに一番大切なのは、調和だ。トラブルを起こさないように気をつけるんだ。誰かとトラブると、その同室の全員と敵対関係になると思えばいい。あ、それと、一応、欲しいものは二ヵ月か四ヵ月先には手に入る。まったく絶望的な不自由さは感じないで済むようにされてるのさ、じゃないと俺たちの意欲を削《そ》ぐと判ってるからな。あいつらだって、俺たちが作るゴッドハンドを当てにしてるんだ。でも、欲しいものを貰《もら》うには日頃の評価がものをいうけどな、とにかく、所長たちに取り入れば、かなりいい暮らしができるぜ」 「取り入る」  呻《うめ》いた秋生に、ヒロが「判るだろう」といいたげに頷《うなず》いた。職員たちのセックスに奉仕すればいいということなのだ。 「あんたもそうしてるのか?」  またも佐古田との事を思い出してしまい、怺《こら》えようのない嫌悪感を感じた秋生が皮肉をこめてそう訊《き》くと、今まで穏やかだったヒロの目つきが変わった。  しかし、ヒロは新入りが悲観のあまりに分別を失い、犯してしまう無礼を、最低一回は許すつもりになっているようだった。 「言葉に気をつけろ。そういうことしてるヤツは、本当は、一番軽蔑《けいべつ》されてるんだ」  それでは、あのクリスは、寮生の中では軽蔑の対象なのだろうか——…。 「さぁて、ざっと案内したけど、何か質問あったらなんでも訊いてくれ」  気持ちを切り替えたようにヒロはそう言ったが、聞くもの、目にするものに驚かされっぱなしで、新入りの三人は質問がすぐに出てこなかった。  質問がありすぎて、どれを優先していいのか判らなかったのかも知れない。 「ないなら、これで新人研修を終わる…なんてな、じゃ宿舎に戻ろうぜ、昨日の脱走騒ぎで、今日は外出禁止だから部屋にいるしかないんだ。また夕食の時にな」  ヒロはそう言うと、南を従え、宿舎へ戻る道を先に立って歩きはじめた。  夕日に照らされて、世界が黄金色に見えるのに、海の波は銀色だった。  銀色の波はやがて灰色に変わって、鈍色《にびいろ》になった。  黒ずんで闇色《やみいろ》に変わった頃になって、ようやく夕食を告げる鐘が鳴り、秋生たちも階下のホールへと降りた。  ホールだけにある時計を見ると、十九時を回った時刻だった。  夕食が遅いのは、この時間まで働かせておこうという意図があり、少年たちが長い夜をもてあまさずに済むようにとの余計な配慮がされているのかとも思われる。  夕食のメニューは、ハンバーグの入った野菜カレーに、豆腐とジャガイモのみそ汁がつき、満腹感を得られるほど量的には多くはなかったが、悪くはなかった。  けれども、食事の後は最悪だった。  秋生たちが、食べ終わった食器をカウンターに戻して部屋へ帰ろうとしたところへ、大介が声を掛けてきたのだ。 「新入り、寝る前に玄蔵さんへ挨拶《あいさつ》してけや」  食欲を満たされ、消灯までの時間を持て余した少年たちは、結局は気晴らしを必要とし、新入り三人に目を付けたのだ。  秋生たちが振り返ると、椅子《いす》にふんぞり返った玄蔵が、乱杭歯《らんぐいば》を剥《む》き、笑いながら言った。 「仲良くしようぜ」  凶悪な面構えの男なので、笑うと、鮫《さめ》に似ている。秋生は、自分たちが危機に瀕《ひん》しているにも拘《かか》わらず、どこか他人事《ひとごと》のように玄蔵を見て考えていた。 「しゃぶってくれよ、なあ」  どうしたらこの環境と、この食糧事情で太っていられるのか、水を飲んでも太るという体質なのかも知れない朗が、口にした途端に、相棒の大介も調子づいた。 「俺らの竿《さお》、しゃぶってくれよ」 「肉棒だよなぁ」  年頃の少年たちが食欲の次に関心を持つ事柄は、ほぼ一つに集まっている。性欲を処理し、あるいは満たすための刺激を得ることだ。 「ミルク飲ませてやるぜぇ」  三人は、それぞれ、自分がもっとも興奮する言葉で、自分の男性性器を表現しながら、同じ行為——口腔奉仕《フエラチオ》を要求しだしたのだ。  実際には、まだ得体の知れない新入りの口腔《こうこう》に男の命綱を預けるつもりはなく、精々が手を使って奉仕させるくらいだったが、秋生たちにとっては、受け容《い》れがたい要求だった。  素早く秋生は周りを見回し、自分たちに向けられた視線の一つ一つを確かめた。  ヒロは助け船を出すつもりはない様子で、南と二人で壁際に下がってしまっている。  寮長の圭も、全体が見回せる暖炉の前に立って見ているだけだ。  昨日まで新入り扱いだった直之、弘、隆吾の三人はトランプを片手に成り行きを見守っている。その同じテーブルには、ゲームに加わるつもりだったのか海人がいた。  クリスは、海人の後ろにあるテーブルに腰掛けていて、一人だけ缶ビールを飲んでいる。  まだ厨房《ちゆうぼう》での仕事が残っている真一郎と亮祐を除くホールの少年たちは、これから行われるだろう行為から、眼をそらすつもりはない様子だった。  彼等は、玄蔵たちが愉《たの》しんだ後には、自分たちにも要求する権利があることを知っているのだ。  強い性衝動に支配されている玄蔵たちは、自分の立場を守るためにも、口に出した要求は引っ込めないだろう。品物を奪われた上に、昼間の挨拶回りはまったく功を奏さなかったのだ。 「さあ、後が閊《つか》えてんだろうから、さっさとはじめようぜ」  焦《じ》れた様子の大介が穿《は》いていたズボンを下ろすと、欲望を見せつけ、行為を促した。  ほとんど勃起《ぼつき》状態の男性器を見せられた途端に、秋生の裡《なか》に昨夜の屈辱が思い起こされ、吐き気がするほどの苛立《いらだ》ちと嫌悪感が湧《わ》きあがってきた。  フェラチオの後は、新入りの貫通儀式になるかも知れない。  けれども、猛獣たちの檻《おり》に加えられた新入りである以上、生き残るために自分へと課さなければならない努力は必要なのだと、頭では理解していた。  もともと秋生は短気な方ではなかった。  暴走族に入っていた時期は、簡単に激しやすかったこともあるが、少年院での暮らしによって、かなり、感情をコントロール出来るようになった。  それに、喧嘩《けんか》や闘争で鍛えられた秋生は、まずは相手をみて、その体力、強さ、どこまで残酷になれるタイプか、などを考えてしまうのだが、追い詰められた少年たちが放つ危険な存在感は、秋生に注意を促し、衝動的な行動を抑えさせたのだ。  傍らで、呆然《ぼうぜん》と立ち竦《すく》んでいる由樹也の方は、すでに覚悟を決めている様子で、玄蔵たちをうかがっていた。おそらく、今の彼の心配は、誰の前に跪《ひざまず》けと言われるか…だけなのだ。  だが俊輔は違っていた。  少なくとも、どこの集団においても、先住者に対しては敬意を払うか、無礼を働かないというのが暗黙の掟《おきて》だが、自分の腕に自信のある俊輔には、端《はな》からそういう考えはないのだ。  俊輔にとっては、強い者が一番偉いのだ。  そして俊輔なりに、誰を倒せば自分がここでの地位を築けるかを思案して、突然の行動に出た。 「めいっぱいサービスしてやるぜッ」  俊輔は叫んだと同時に、だらしなく椅子にふんぞり返っていた玄蔵の顔面に、ボクサーの拳《こぶし》を叩《たた》き込んでいたのだ。  誰もが唖然《あぜん》としたなか、派手に椅子から転げ落ちた玄蔵だが、口から血を流しながらも直《す》ぐに立ちあがり、ニヤニヤ笑った。  玄蔵は、すこしも痛みを感じていない様子で、切れた口の中に指を突っ込み、歯が折れていないかを探りながら、顎《あご》をしゃくった。 「やったれや」  すかさず、玄蔵の仲間でもある大介と朗が、俊輔へと挑みかかって、一対二で殴り合いとなった。  驚いたことに、殴られても、へらへら笑っている大介と、肥満した肉が衝撃を吸収してしまうのか、朗も殴られるのには平気だった。  彼等は、温室のゴッドハンドに咲く花を常食する中毒者でもあるために、痛みに対して鈍感になっているのかも知れないなどと考えていると、玄蔵の声が聞こえた。 「おめえら、ぼさっと見学してんじゃねえぜ。俺《おれ》を、勃《た》たせろ」  玄蔵は、残った二人の新入りを放ってはおかなかったのだが、彼が指名したのは、由樹也の方だった。  ホッとしたのも束の間、秋生は、部屋の隅に押しやられたテーブルでトランプゲームに加わろうとしていた海人によって、人差し指で手招かれた。 「お前は、俺だ」  凄《すご》みのある海人の声が、秋生の神経をビリッと緊張させた。  秋生は海人を睨《にら》み、それから、ほとんど海人と身体《からだ》を触れ合わせているクリスをも睨んだ。 「来いよ」  テーブルにいる直之、弘、隆吾はそれぞれ秋生と海人とを交互に見ながら、ひそひそ笑いあい、肘《ひじ》でお互いを小突きあい、卑猥《ひわい》な忍び笑いを交わしあっている。  朗に後ろから羽交い締めにされた俊輔は、前方から殴ってくる大介を足で蹴《け》り、必死の攻防をしている。秋生は、そんな俊輔を見ていながら、自分だけ海人の前に跪《ひざまず》きたくはなかった。  秋生は精一杯の減らず口で、海人に反抗した。 「断ったら、どういうことになるんだ?」  すると、飲んでいたビールを海人に渡したクリスが、そちらを見ろとばかりに、俊輔の方を視線で示した。 「あいつみたいに、他のことで俺たちを愉しませてくれたら許してやる」  大介が床に伸びていた。俊輔は、まだ自分の背後をとっている朗をなんとか引きはがそうと格闘している最中だ。 「芸をしろってのか?」  秋生が訊《き》き返すと、クリスは海人にしなだれかかって行きながら、誘惑する者の、魅力的な微笑《ほほえ》みを浮かべた。 「お前はなにが出来る?」  同時に、踊れ、歌え、脱げといった囃《はや》したてる声が掛かり、煽《あお》る手拍子が起こった。  視線をめぐらせて見ると、由樹也はすでに玄蔵の前に跪き、赤銅色《しやくどういろ》の性器を両手で擦《こす》っていた。  見た途端に、ふたたび秋生の裡《なか》にはたまらない嫌悪感がこみあげてきて、爆発しそうなほどに膨れあがった。  沸点が低くなっているのはよくない兆候だ。  必死で抑えようとした秋生に、テーブルを離れた隆吾が近づき、身体に手を掛けてきた。 「ストリップしろよ。あんがいイイ肉体してんじゃん」  触れられた瞬間に秋生を抑えていたものが外れ、追い詰められた獣のように叫ばせた。 「俺にできるのは喧嘩だッ」  叫ぶなり、秋生は身体を撫《な》でまわそうとした隆吾を殴り飛ばした。  後ろに吹っ飛んで床に倒れたところを、襟首を掴《つか》んで起きあがらせ、今度は腹に膝頭《ひざがしら》をめり込ませる。  泡を吹きとばしながら隆吾が倒れたのを見て、同室の仲間がやられたとばかりに、直之と弘がテーブルから立ちあがった。 「この野郎!」  上着を脱ぎ捨て、ランニングシャツ姿になった直之の背には、金髪女の全裸|刺青《いれずみ》があった。  直之が背を向けた一瞬の間に見えただけだったが、官能的な女の顔が、薄手のシャツを透かして秋生を誘っていた。 「いい気になるなよッ」  怒りのままで突っ込んでくる直之を標的にするのは、秋生にとってはいとも容易《たやす》かった。  直之は、飛びかかろうとしていた自分の勢いも加わって、受けた打撃も大きく、ボディブローの一発で床にひっくり返った。  続いた弘へは、首から顎にかけて手をあてがい、一気に喉《のど》を仰《の》け反らせると、がら空きになった腹に右から拳を入れ、右足を軸にした膝蹴りを加えて昏倒《こんとう》させてしまった。  起きあがった隆吾が、ズボンのポケットに隠していたナイフを出すと、バネ仕掛けで飛び出してくる刃先を取りだした。  刃物は禁止されてはいなかった。  髭《ひげ》を剃《そ》るための刃物から、様々なナイフまで、望めば与えられ、どのように使うかも自由だった。  他人を刺すのに使おうとも、自分を殺すのに使おうとも…。 「やめろ、ケンカは御法度《ごはつと》だぜ、もしも管理棟に見つかったら、全員が懲罰だ。やめろっ」  ナイフを見て、ヒロが叫んだが、彼の制止は効果がなかった。  久しぶりの殴り合いに、日ごろ鬱憤《うつぷん》がたまり、暴れるきっかけを欲していた少年たちは興奮し、加熱するばかりだったのだ。  秋生が暴れ出したのに俊輔も気を大きくしたようだった。  玄蔵の前に跪き、擦らされていた由樹也も、唖然としていたが、ぱっと飛び退いて、手にしてしまった汚物を憎むように、ズボンの脇《わき》で手を拭《ふ》いた。 「なにしやがる」  怒ったのは玄蔵だった。彼の脳は、侮辱されたことを正しく感じ取り、怒りへと変えたのだ。  床に寝そべっている大介を蹴り飛ばして起きあがらせ、乱闘に加われと示した。  秋生は、誰であろうと、向かってくる者にブローを叩き込んでやるつもりで構えていたが、ふいに、座っていた海人が腰をあげたのに気がつくと、今まで感じていなかった焦りを覚えた。  圧倒的に大きな力が、海人からは感じられた。  それは、反発しあう磁場同士の力にも似ていると思った次の瞬間、秋生は息が詰まり、床に頽《くずお》れていた。 「ぐっ……おう」  額にびっしりと汗が噴き出した。  しばらくの間息が止まっていたお陰で、秋生は食べたばかりの夕食を吐き出さずに済んだが、背中にまで穴が空いたかと思われる海人の一撃は、凄《すさ》まじく効いた。 「口ほどにもないな」  頭上から聞こえたのは海人の声だった。  海人は、片膝を着いて身を屈《かが》めると、秋生を覗《のぞ》き込みながら嘲笑《あざわら》った。  不様な格好で倒れた秋生とは違い、まだ俊輔は暴れていた。  ボクシングをやっていた俊輔は、強かった。一撃で相応にダメージを与えていくが、ジャンキーの玄蔵たちが相手では、結果的には分が悪かった。  なにしろ玄蔵は、痛みを感じないのだ。 「ちくしょー」  怪物のような男に対して、ついに俊輔は、先ほどまで玄蔵が座っていた椅子《いす》を持ちあげ、頭から振り下ろした。  椅子の足が玄蔵の顔面を直撃し、砕けると同時に、さすがの玄蔵も脳震盪《のうしんとう》を起こしたのか、床に倒れ動かなくなった。  俊輔は、まだ椅子の背もたれを掴んだまま、次に向かってくる者を威嚇《いかく》するように振りあげたが、恐れたのか、誰も動こうとしなくなった。 「どうした、かかってこいッ」 「うるさいな、殺せ」  獰猛《どうもう》な声を張りあげた俊輔を黙らせたのは、首から下がった金貨をもてあそんでいるクリスの一言だった。  秋生の前にしゃがんでいた海人がすっと立ちあがり、俊輔の方へと向きなおった。  ようやく俊輔は、場の雰囲気が変わったことに気がついた。  喧嘩《けんか》慣れしている彼も、そういう変化には敏感なのだ。  本能的に危機を感じ取った俊輔は、助けを求めるように、寮長の圭へと眼を向けた。  ところが、喧嘩を止めもしなかった圭は、冷たいまでにあっさりと、言った。 「食糧は豊富という訳じゃない。少しでも住人は少ないほうがいいんだ。それに、大切な椅子を壊した。ここでは、ものを壊したら補給はほとんどないからな、それだけでも死刑に価する」 「待てよ。新入りに来た早々死なれちゃ困るんだ」  口をはさんだのはヒロだった。 「昨日、二人も減ったんだぜ。せっかく来たこいつ等には、働いて貰《もら》わないとならないんだ。直に卵|獲《と》りの仕事もあるし、台風で漂流物だって増える。償《つぐな》いは働いて返させようぜ」 「賛成」  南が援護するように言い、全員の間に、考えるための沈黙が流れた。  殺しても死なないような玄蔵は、もう起きあがり、頭から流れてくる血を指で拭いている。鼻血を流し、目元を膨れあがらせた朗が駆け寄って、手当をはじめた。  玄蔵は、まるで、誰に殴られたのか忘れてしまったかのようだったが、頭に包帯が巻かれ終わる頃になってようやく、俊輔を見つけだし、睨《にら》みつけた。 「俺の椅子、壊したな?」  自分の身体を壊されるところだったことは、彼にとってはどうでもいいらしかった。 「どうする? こいつを殺すのか?」  圭が、玄蔵に訊いた。  身体を強張《こわば》らせている俊輔の前で、玄蔵は一瞬考えたようだったが、彼の頭は殴られたお陰か、何時《いつ》になく素晴らしい働きをみせた。 「こいつは、俺に詫《わ》びをしたいはずだ。それには、死んじまったらできない」  俊輔が反発しそうになる自分を抑えているのが判った。  けれども、死刑判決を覆すためには、彼らの——玄蔵の言いなりになるしかなかったのだ。  この夜から、俊輔は床に四つん這《ば》いになり、玄蔵の人間椅子として扱われることになった。  由樹也の方は、玄蔵たちのために、両手や口を使って奉仕する機械になった。  必ずしも全員が新入りの奉仕を必要としている訳ではなく、ただ、その手のサービスを安全に受けられるのならば味わってもいいというだけだったので、由樹也は玄蔵たち三人を満足させれば許してもらえた。  やや凶暴と判定された秋生には、思いがけない役割が振り当てられた。  それは、短い直之たちで四ヵ月、一番長い玄蔵で五年もの間、島に閉じこめられて暮らしてきた少年たちに、娑婆《しやば》の様子を話して聞かせるという『お話係』だった。  東京の街、新しい店、アイドル歌手や流行している歌、世の中がどうなっているのか、何も情報を得られない彼等は知りたがったのだ。 「十ヵ月も少年院に居たんだ、話せることなんかないぜ」  最初はそう反発した秋生だったが、俊輔や由樹也の姿を見ると、自分だけが免れる訳にもいかないと判った。  それでもいきなり思いつかないので戸惑っていると、最初の女の話をしろとか、好きな食い物の話をしろとまで言われた。  少年たちは、話を聞いて疑似体験をしたいのだ。  心を決めて、秋生はホールの中心からやや外れた場所に立った。  そこに立つと、全員がよく見えるのだ。暖炉の所にいる圭、隅で椅子に腰掛けているヒロと南、俊輔を椅子代わりにしてその背に座り、股間に由樹也を跪《ひざまず》かせている玄蔵、彼の背後に控えている大介と朗。  トランプを広げたままのテーブルには、直之、弘、隆吾、それと海人が戻っていて、クリスは海人の両足の間に座り、膝頭《ひざがしら》に頬杖《ほおづえ》をついて凭《もた》れ掛かっている。  騒ぎに巻き込まれたくない食事係たちは早々に部屋へと引き揚げてしまったのか、姿がなかった。  ほぼ半分が、顔を腫《は》らしたケガだ。そんな彼等を見ながら、秋生は、自分の裡《なか》でも忘れがたい幸福な日々に味わったひとつの体験を話した。 「……お袋は看護婦で夜勤とかがあったから、ガキの頃、俺はほとんど一人で飯を食ってた。テーブルにラップが掛かった料理が並んでて、レンジで温めて食うんだけど、俺が八歳くらいの時に、おやつに、たこ焼きが用意してあったんだ」  どこかから止めろと声が掛かるかと思ったが、誰も言わなかったので、秋生は続けた。 「たこ焼きは、元々は冷凍のやつで、味がついてないんだ。それをレンジで温めてからソースと海苔《のり》をかけて、最後に鰹節《かつおぶし》もかけたら、鰹節が生きてるみたいにニョロニョロ動き出したんで、俺は恐くなって、食えなくなったんだ」  突然、笑いが起こった。 「バッカじゃねぇの」 「かもな、けどそん時は、マジで恐くて、しばらくたこ焼きが食えなかったくらいだ」 「もう食えるのか?」  口許《くちもと》に笑いを張り付かせたヒロが訊《き》いてきたので、秋生は頷《うなず》いた。 「それから直に、近くに住んでいた女の子が、ニョロニョロ動いてるのを平気で食ってるの見て、女の方が恐いって思ったら、たこ焼きが食えるようになった」 「お前って、サイコーにバッカ」  大介が両足をバタバタさせて笑っている。  声を立てて笑っているのは、大介ばかりではなく、秋生が殴った弘や直之、終《しま》いにはナイフを出した隆吾も笑っていた。  結局、秋生は、暖炉の上に掛かった時計が九時を知らせ、消灯時間になるまで話を続けさせられた。  管理棟から主電源を切られることで、消灯を強制される。  だが、電灯がなくとも、宿舎の中は満月に照らし出されたように明るかった。  それは、消灯時間の九時から午前四時半までの間だけ灯《とも》される灯台の光が、部屋や廊下の窓から差し込んでくるからだった。  夜間も監視されている気分を味わわされるが、気にしなければ常夜灯《スモール・ライト》の代わりにもなり、便利なものだった。  この夜、部屋に戻った秋生たち三人は、それぞれが絶望に打ちひしがれていて、なかなか寝つけなかった。  俊輔は屈辱に慄《ふる》え、由樹也は泣いていたが、三人の中では、なんの前知識もなく島に連れてこられた秋生のショックと落ち込みが、一番|酷《ひど》かった。  ここは、永遠に、社会と和解する機会を奪われた少年たちが暮らす島なのだ。  自分をこんな島に送り込んだ男は、都心の一等地にある豪邸で、快適に暮らしている。母の貴美子《きみこ》は、この島送りに賛成したのだろうか…、赤ん坊がいるから、もう秋生のことなどどうでもいいのだろうか——。考えると、自己|憐憫《れんびん》に、狂いそうになった。  秋生は深く息を吸い込んだ。  こみ上げてくる憎悪と、絶望で、叫びだしたいほどだった。  だから、口唇からほとばしってしまうかも知れない叫びを、逆に息を吸い込むことで、秋生は怺《こら》えた。  何時まで、怺えられるか判らなかったとしても、いまは少しだけ役に立っていた。  自己憐憫に喘《あえ》ぐ姿を誰かに知られるのは、屈辱でもあった。  そうやって、宿舎で過ごす最初の夜を、秋生は乗り切ったのだ。 「朝だ、起きろよ」  入ってきたヒロの声で、ドア近くに寝ていた秋生が、真っ先に叩《たた》き起こされた。 「何時だ?」 「さあな、四時半頃だろ、早く起きろよ。仕事があるんだぜ」  急《せ》きたてられて秋生は起きあがり、続いて由樹也と俊輔も眼を醒《さ》ました。  三人ともが、昨夜はヒロと南に恩があった。  特に俊輔は、ヒロが取りなしてくれなければ、椅子《いす》を壊しただけで、殺されるところだったのだ。そのヒロが起こしに来たのだから、どんなに眠くても、逆らえるはずはなかった。 「こんなに朝早くから仕事させられるのか?」  つい不満が出てしまった秋生に対して、ヒロがきっぱりと言った。 「朝飯前の仕事があるんだよ。周りが明るくなったら、もう仕事開始だ。特に新入りは、まず海岸へ行き、薪を拾うんだ」 「薪?」  農場から着てきたレンガ色の作業服に着替えた由樹也が、聞き返した。  秋生も、来た時に着ていたシャツと、昨日支給された作業用ズボンを穿《は》き、ヒロが長靴を履《は》いているのを見て、自分も倣《なら》った。 「島の周りに流れ着くものを拾うんだよ。特に流木は風呂《ふろ》と暖炉に必要だから毎日拾いに行くんだ。他にも、珍しいものが漂着してないか捜すんだよ。入り江に色んなものが打ちあげられるんだ。難破した外国船から流れ出したものなんかも漂着してることがあるからな」  突然、かすかな希望を見いだしたのか、由樹也がぱっと顔を輝かせ、元気になった。 「難破船?」 「ばか、逃げれるかもって思ったんだろ? だったらとっくに俺《おれ》たちが逃げてるさ。形になってるものなんか来ないんだ、重いものもない。例えば、財宝の詰まった箱や金貨の箱とかは、海の底に沈んでるんだ。来るのは、プラスチック容器とか、洗剤の空き容器とか、鳥の死骸《しがい》とか、木箱に入ったものとか」  身支度を終えて部屋を出る時に、好奇心に負け、秋生も訊いていた。 「いままで一番すごかった漂着物はなんだ?」 「一番すごかったのは、箱いっぱいに詰まった液体洗剤の空き容器かな、あの漂白剤とか、柔軟剤とかあるだろ? 全部空っぽだったのさ」  笑い顔のヒロから、それが冗談なのかは測りかねた。 「それをどうした?」 「もちろん、保存してあるよ。あれは幾つも集めて把手《とつて》の部分に紐《ひも》を通すと、浮き輪みたいになるんだ。なんか、役立つこともあるだろう?」 「逃げる時のためか?」  いきなり俊輔が話題に加わったが、声が大きかったために、シッと、ヒロが口許を抑えた。  早朝で、まだ他の部屋の者は寝ているのだ。  四人は黙って階段を下り、風呂場の焚《た》き口へと通じる洗濯室のドアを通って外へと出ると、そこには、肥料用のポリ袋を用意した南が待っていた。 「一人がこの空き袋十枚に流木を集めるんだよ。大丈夫、直《す》ぐにいっぱいになるから」  南の言葉に励まされて、秋生たちはハウスを通り過ぎると、畑の間を歩き、岬の方へ下って行った。  島では、どの道も舗装されていなかったが、硬く踏みしめられ、歩きやすかった。  ここまで硬くなるのに、何年、何十人の人間が通ったのかと、つい考えずにいられない。  そして、彼らは皆、どこへ行ったのか——…。  十分も歩かないうちに周りの樹木がなくなり、足元の植物も姿を消して、岩肌の剥《む》きだした崖《がけ》っぷちと、海が見えるようになった。  朝の海は灰色で、波は白かった。  海の方から、さぁーっと冷たい潮風が吹いてきて、鼻の奥がツンとなった。 「風車の下を通るんだけど、もうセンサーは切ってある。センサーには電力が掛かるからな、できるだけ無駄なことをしないようにしてるのさ」  切り立った断崖《だんがい》から海までは四十メートルほどだった。  いかに島の海抜が低いのかが判るが、その絶壁には人工の階段が刻まれていて、入り江へと降りられるようになっていた。  入り江には、波間まで五メートルもないささやかな砂浜があり、打ちあげられた漂流物が点々と転がっていた。 「今日も、めぼしいものはなさそうだな…。海流があって、そこから入って来れないんだな」 「出ても行けないけどね」  南が付け加えて言った。  秋生たちは、ヒロの指示がなくともそれぞれ渡された肥料袋に、薪になりそうな木ぎれや、裂けた板片などを入れはじめたが、かすかに期待していた値打ちのある漂着物はひとつとしてなかった。  流れ着いているのは、木片か、外国語のラベルがついた洗剤容器、ビニール紐の塊、海鳥の死骸などでしかなかったのだ。  砂浜には綺麗《きれい》な貝もあり、指で掘り起こした秋生にヒロが声を掛けた。 「貝を集めて首輪にするのもいいぜ」  ヒロの首に下がっている貝のネックレスは、そうやって造られたもののようだった。 「みんな、ピアスとか指輪とかしてただろう? ああいうアクセサリーは、時々管理棟の奴《やつ》らがくれるんだ。どうせ、どっかの盗品か、売れ残りで偽物なんだけどな、そんなものでも俺たちが嬉《うれ》しがると知ってるのさ」 「クリスの金貨は本物だよ。お母さんの形見でロシアの金貨らしいんだけど、よく見せてくれないから…」  口をはさんできた南だが、空へと視線をあげ、次には歓声をあげていた。 「アッ、海鳥が来てる。もうじき卵を産むんだっ」  つられて空を見あげた秋生の眼に、腹の白い、大きな翼の鳥が見えた。  翼のある鳥になれたら、この島を出ていくことが出来るのだ……。  だが、不可能を願うのは止めようと、秋生は海鳥から眼を逸《そ》らした。  長い航海の末、潮水を吸って重たくなった木ぎれを、五人は黙々と拾い集め、自分の袋を満たすと、今度はそれをリレー方式で断崖の上へあげ、風車の土台であるコンクリートの上に並べた。 「こうやって雨に当てて潮を抜き、天日に干して乾いたら、薪小屋に集めて入れておくんだ」  一仕事終えて宿舎に戻る途中で秋生は海を振り返って見た。  青みを増した海が輝きはじめていて、今日も天気がよさそうだ。 「島の周りは、みんな今の浜みたいになっているのか?」 「砂浜があるのは、今の所と管理棟の裏の方だけだ。後は、鋸《のこぎり》みたいな岩ばかりの絶壁で、直接波が打ち寄せてる。今の浜も、海が荒れてると、ほとんど水を被《かぶ》っちまうけどな。さあ、朝飯の後は洗濯と掃除だ。それが終わったら……」  その先を聞かないで済むように、秋生は意図的に歩をゆるめ、ヒロから離れた。  朝食の後、新入り三人は、風呂場の隣にある洗濯室でほぼ全員の、二日分の衣類を洗うことになったのだが、当然、洗濯機などなく、石鹸《せつけん》を使った手洗いだった。  三人で洗濯をはじめて、干し終わるまでに午前中を全部使ってしまい、昼までに宿舎の掃除は出来なかった。 「掃除は午前中に終わらせないと後が大変なんだけど、まだ仕事の要領が悪いから仕方ないな」  初日とあって大目に見てくれたヒロだが、だからといって仕事が楽になるわけではなかった。  ヒロは、一階の全部と、二階の廊下部分の掃除を指示し、その後には、自分たちの仕事である牛の世話を手伝わせた。  夕方には干した洗濯物を取り込んでたたみ、名前ごとに分けて、それぞれの部屋に届け、今度は風呂を沸かす作業に入った。  宿舎の風呂は浴槽が大きいので、沸くまでに二時間はかかる上に、一日おきの入浴は皆の楽しみで、早い者は五時頃から入りに来てしまうのだ。 「三人もいるんだ、大した仕事じゃないさ、覚えれば要領よくなるし、分担できるさ。明日からは薪拾い以外、俺たちは手伝わないけど、がんばれよ」  初日でヒロが手伝ってくれたから間に合ったが、さっそく玄蔵たちが入りに来た。続いて畑係の直之たちが入ったところで夕食の鐘が鳴り、何をおいても食事とばかりに、全員がホールへと移動した。  夕食の間、食事係の真一郎と亮祐が風呂に行ったので、新入りは、食べている途中でも、火の加減を見に行かなければならなかった。  結局、疲れ切っている由樹也と、ふてくされている俊輔は当てにならず、それは秋生の仕事になってしまったのだが、結果としては、労を執ったことによって秋生は救われたのかも知れなかった。  俊輔は壊した椅子の代わりに、今夜も食事の後には玄蔵の人間椅子を務めさせられ、由樹也にも奉仕があったのだ。 「あいつら気の毒にな、でも、風呂のない日には、お前もまた話をさせられるかもな」  風呂|釜《がま》の前で火の調節をする秋生に、焚き口へと通じる小窓を開けて顔を出したヒロが、ホールの様子を説明して言った。 「疲れた?」  続いて浴室の中から南に訊《き》かれ、秋生は答えた。 「疲れたよ。くたくただ」  だが一日中働かされたお陰で、絶望と怒りを再燃させ、悲しんだり苦しんだりしている暇はなかった。 「慣れるしかないよ。それか、新入りが来るのを待つんだよ」 「そん時には、新入りの教育係を頼むよ」  ヒロが辟易《へきえき》した調子で言った。 「俺には、あんたみたいな気配りはできないからな、無理だ」 「そうでもないだろ?」  昨日と、今日で、ヒロはずいぶんと新入りを観察した上でそう言ったのに対し、秋生はもう一度|頭《かぶり》を振って否定すると、逆に訊いてみた。 「あんたはなんで教育係になったんだ? 俺たちの前に来たってわけじゃないよな?」  最初にヒロは、自分は一年半から島にいると言っていたのだ。 「俺は臆病《おくびよう》だからだよ。新入りがどんな奴なのか知っときたいんだ。どんな危険な奴が来たか判らないんじゃおちおち寝てらんないからな…、それには教育係をやるのがいい、最初の反応を見れるからな」  秋生は、ふと、ヒロがなぜここに来ることになったのか、彼の犯した犯罪が何だったのかを知りたいと思ったが、まだ黙っていた。  知りたいことは、追々と判ってくるだろう。ヒロのように、自分から知ろうと気をつけていればいいのだ。 「あと、質問は?」  秋生の表情にまだ疑問符が浮かんでいるのを読んだのか、ヒロがそう言った。 「だったら、誰と寝れば、楽させてもらえるんだ?」  秋生は、——笑えない冗談を口にした。  南の甲高い笑い声が浴室に響いた。 「それは無理だよ。手一杯で余ってる人間はいないもん。あの玄蔵でさえ働いてるんだよ、でも、あいつがハウス管理やってるのは花が欲しいからだけどさ」 「所長と寝るのが一番だな」  ヒロが割って入り、南が否定した。 「でもぉ……、所長はクリスにメロメロじゃない」 「あの変態所長の相手が出来るのは、淫売《いんばい》のクリスくらいだからな」 「淫売?」  秋生が聞き返すと、ヒロは、他の者たちと同様に、あっさり教えてくれた。 「ウリセンやってたのさ。で、やくざの縄張りを荒らしたせいで、ここへ連れてこられたんだな、言ってみれば、所長の慰安夫さ」  それからヒロは声を落とした。 「仙北谷って、この島を持ってる暴力団の組長の息子かなんかなんだぜ。でも、スゲー変態だから持て余されて、島に閉じこめられてるのさ、本人は組にとって重要な仕事を任されてる気になってるけどな」 「秋生はクリスが気になるの?」 「いや、海人の方が気になる。昨日殴られて、死ぬかと思ったからな」  秋生ははぐらかしたが、ヒロは見透かしたように言った。 「クリスに手を出すなよ、海人に殺されるぞ」 「あの二人、そういう仲なのか?」  窓を見あげた秋生と、窓から顔を出しているヒロの視線が合った。 「秋生は、海人をどう思う? いや、どう見える?」  ヒロは秋生に訊かれたことには答えずに、問題の焦点をずらした。  逆に聞き返された秋生の方は、戸惑いながらも、正直に答えた。 「海人は、野に放たれた虎みたいだな…、クリスの方は、男たちに甘やかされてる白い猫みたいだ」 「かなり当たってるよ。海人は俺《おれ》と一緒に来たんだ。で、昨日の夜みたいに新入り歓迎会の時、もちろん大乱闘になった。玄蔵もいたし、もっとキレてる奴《やつ》もいたからな、つい俺なんかも燃えたね。けどよ、最初から、海人には手出しできない迫力があったな、あいつ、素手で二人殴り殺してさ、凄《すご》かったぜ」  窓から顔を引っ込めたヒロは、水音をさせて湯船に浸《つ》かった様子だったが、黙った訳ではなかった。浴室の壁に反響して、いっそう声が大きく聞こえるようになった。 「で、大乱闘の結果、俺たちは独房に入れられたけどすぐに出された。人手が足りなかったからな。出てからは、誰も海人に逆らえなかった」  その話とクリスとがどう繋《つな》がっていくのかが判らず、秋生が黙っていると、ヒロの不足を補うように、南が口にした。 「海人はね、妹を自殺に追い込んだクリスを殺しに、この島まで追っかけてきたんだよ」 「まさかッ……本当か?」  南が話してしまったために、ヒロも話さざるを得なくなったのか、ふたたび窓から顔を出した。 「本当だよ。海人ってアングラのファイト・クラブで稼いでたヤツでさ、金もらって本気の殴り合いの試合見せる所さ、だから暴力団ともつき合いがあったんだな。で、クリスの行方を突きとめ、この島まで渡ってきたのさ。スゲー執念だろう?」 「最初のころ、海人ってクリスを殴ってばかりいたよね。殺すのかと思ったもん」 「けど、いつの間にか仲良くなっててさ、こればっかしは俺にも判んないね。クリスといればそういう関係になるだろうし、あんがいたらし込まれたのかもな」  妹の仇《かたき》に誘惑されて、島まで追ってきた怒りと復讐《ふくしゆう》を、あの海人が忘れるとは思えない。ヒロには彼なりの推測があるのだろうが、それは口にしなかった。 「でもクリスは、所長以外とは寝ないんじゃなかった?」  所長以外の男ともやっていたと、秋生は口を滑らせそうだったが、黙っていた。 「あんたは、本当に色々と詳しいんだな」 「だから言っただろう。俺は臆病なんだよ。こういうの新入り病っていうんだけどな、相手を知っておかないと不安なんだ」 「だったら俺には、訊かないのか?」 「いま聞かなくても、そのうちみんなの前で話させられてるかもな、お話係なんだしさ」  そんな時が来るだろうかと思いながらも、もしかしたら、毎晩想い出を喋《しやべ》らされていって、何時《いつ》か、何もかも全員に知られてしまうのではないかと秋生は警戒心を抱いた。 「俊輔や由樹也は、ずっと、玄蔵たちに奉仕させられるのか?」 「たぶんね。玄蔵はあれで執念深いからな、別のことでご機嫌とらないと難しいな」 「俺も、話させられるのかな?」  正直に出てしまった秋生の危惧《きぐ》を聞きながらも、ヒロはしみじみと言った。 「たこ焼きの話、よかったな。みんな、そう思ったぜ」  それが答えだった。  第三章 栄光の過去、地獄の現在、絶望の未来  ホールに貼《は》られたカレンダーが間違っていなければ、秋生たちが連れてこられてから十日が経っていた。  十日の間に、李《り》を含めた宿舎の十六人の性格と、存在するルールが、何となく判ってきた。  見るからに凶暴そうな大男の玄蔵《げんぞう》はジャンキーで、獰猛《どうもう》だがどこか虚《うつ》ろだ。彼の仲間でスキンヘッドの大介《だいすけ》は神経質で女々《めめ》しいところがあり、太った朗《ロウ》は執念深い。  寮長の圭《けい》は不気味な爬虫類《はちゆうるい》的少年で、食事係の真一郎《しんいちろう》と亮祐《りようすけ》はホモセクシャルな関係にあることも判った。  美貌《びぼう》のクリスは、所長だけでなく職員全員と関係があり、海人《かいと》とも特別に親しいのだが、それは弱い生き物が保身や楽をするための手段とは限らず、好きでやっているらしかった。  海人は、ほとんど一日中クリスと行動を共にしていて、島に来た理由をヒロから聞いていなければ、ベタベタに相思相愛な二人に見えてしまうところだ。  へらへらとした笑いを浮かべ、人のよさそうな顔をしているが、挑発されたり、威厳を傷つけられたと感じた途端に、激しやすい性質が表れてくるヒロと、見る者の警戒心を解いてしまうような愛らしさと無邪気な笑い顔の南はいいコンビだ。  ナイフを隠し持っている隆吾《りゆうご》と、陽と潮に灼《や》けてチョコレート色の肌をした弘《ひろし》は髭《ひげ》を生やしているが、海人ほどには決まっていない。金髪女の刺青を背に彫っている直之《なおゆき》は、その刺青を買われて時おり管理棟へ呼ばれていくことが判った。  管理棟の男たちは、直之を後ろ向きにさせ、背の女を見ながらセックスするのだそうだ。  李は偏屈な中国人で、元は医者だったらしいが、現在は、寮生の誰とも交わりを持たずに料理だけを作っている。  俊輔《しゆんすけ》はずっと怒り続けているが、その怒りを発散させられる場所がないまま、絶望的な気持ちと闘っていた。  由樹也《ゆきや》はいつも泣いているか、ぶつぶつと独り言を口にしているかで、精神の不安定さが増してきていた。  そして秋生は、母親に見捨てられ、訳も判らずに島に送り込まれた憎しみを抱えながらも、自分でも不思議なほど頑張っていた。  島での生活は、仕事を覚え、対人関係を間違えなければ一日は同じことの繰り返しのはずなのだが、絶海の孤島であり、大自然に曝《さら》されている環境なので、実際には、毎日は同じようで、違っていた。  毎日、問題が持ちあがる。  天候ひとつとっても、仕事の方法やペースが狂ってしまい、後に影響する。特に手で洗わなければならない洗濯が一番|辛《つら》かった。  大量に出る洗濯物には、皆名前が付き、汚れ方でもそれぞれが自己主張をしていたが、洗濯を新入りに任せずに自分で行う者もいて、クリスもその一人だった。  実際、クリスは自分の洗濯物を、管理棟にある全自動洗濯機で洗うという、所長の愛人でもなければ不可能な特権を持っていたのだが、他のどんなこととも同様に、誰も文句は言わなかった。  ただ、なにがあっても、管理棟からの助けはなく、見回りもなかった。  それはそれで、問題のない時には気楽なのだが、相容《あいい》れそうにない肉食動物たちの寄せ集められた場所で、問題が起こらないはずはないのだった。  集められた少年たちは、生意気な不良といった程度ではないのだ。  ここは、共存できない肉食動物たちが寄せ集められ、閉じこめられ、抑《おさ》えつけられているが故に、爆発の機会をうかがっているのだからだ。  だが、共存は出来ないが、共通点はあった。  ここにいる全員が、一人か、二人か、もっと大勢かは判らないが、人殺しだった。  秋生は、自分の手を使って、直接に人を殺したことがない。暴走行為での事故死や、喧嘩《けんか》、暴動、リンチなどで死んだ仲間や、相手を見た経験はある。直接ではなくとも、自分が指示した闘争で死者がでたこともあるから、罪がないとは言えず、加害者の意識はあるが、人の死には、もう関わりたくないとも思っていた。  故にか、他の少年たちの過去を知っておきたい。——知らない方が不安だというヒロの気持ちは、秋生自身の気持ちにもなりつつあった。  秋生は最初の夜に殴った相手には詫《わ》びを入れ、それで表面上は治まったが、自分が火種を植えつけてしまったことだけは忘れないようにしなければならなかった。  何時《いつ》、その火種が再燃するか判らないからだ。  そしてこの十日間、夕食後から就寝までの自由時間の間、俊輔は玄蔵の人間|椅子《いす》とされて床に跪《ひざまず》いていなければならず、由樹也の方は、玄蔵、大介、朗を順繰りに、手か口を使って奉仕させられていた。  秋生は、風呂《ふろ》の火焚《ひた》きの役目と、風呂がない日には、アラビアン・ナイトの主人公《シエヘラザード》のように話をさせられた。  特に、食べ物の話は好評だったが、昔のテレビアニメや、漫画の内容を憶《おぼ》えている限りで話し、時には要求されて、プライベートな経験やバイクの話などもさせられた。  俊輔や由樹也に比べたら、秋生は幸せ者だった。その為に二人から嫉妬《しつと》され、余計な仕事を回されるという損も負っていた。  一日おきの風呂も、火の番をする秋生が一番最後だった。  消灯時間を過ぎると、窓から入ってくる灯光を頼りに、秋生は一人で入浴しなければならなかった。  不自由な島での生活は、絶望と隣り合わせだったが、だからといって今のところは、自暴自棄になる者もいなかった。  秋生も、まだ持ち堪《こた》えられていた。  それを見るまでは……。  海の方から霧が漂ってくるような朝だった。  毎朝の流木拾いに浜へ降りた五人は、凄《すさ》まじい臭いと、鳥たちが群れている場所があるのに気がつき、打ちあげられた水死体を見つけたのだ。  水死体というよりも、骨の剥《む》きだした肉塊と呼んで差し支えなかった。衣類は何も着ていなかったばかりでなく、皮膚も肉も大部分が腐敗して崩れ、そこから骨が覗《のぞ》いているという状態だった。  由樹也が口許《くちもと》を押さえて、蹲《うずくま》った。  残った肉を海鳥たちが啄《ついば》もうとして寄ってくる。  とても近寄れる臭いではなく、離れた所から見ていたヒロが、呻《うめ》くように言った。 「トオルだ」  朝食前だからこそ吐かずにいられたヒロも、臭いの強烈さに涙が出てくるために、水死体から顔を反《そ》らし、完全に背を向けた。 「どいつだって?」  鼻で息をすると臭いを嗅《か》いでしまうために、口で呼吸をしているらしい俊輔が聞き返した。  秋生の耳にもその名は聞こえたが、海に向かって吐いている最中で、聞き返すことなどとても出来なかった。 「徹だよ。あんたたちが来た日に逃げた奴《やつ》だ。島に還《かえ》って来たんだ」 「もう一人いたんだろう? あいつら、二人で逃げたって言ってたぜ。そいつはどこだよ」  臭いに平気なのか、俊輔は次々に質問しているが、ヒロにも、誰にも判るはずはなかった。 「知らないさ、南、みーなみ、圭に知らせてこい」  言われた途端に、南は弾《はじ》かれたように走り出し、断崖《だんがい》を登って行ったが、しばらくしてからビニール袋を持って戻ってきた。  ハウスを被覆する素材と同じ厚手のビニール袋が与えられた意味は、誰に言われなくとも判っていた。  その中に、かつて徹だった残骸《ざんがい》を入れて運んでこいということなのだ。そして、その処理は、新入りの役目だった。 「秋生、おめぇがやれよ。こういうのは、おめぇが得意だろう?」  泣きながら吐き続けるばかりの由樹也は役に立たず、新入りの中では自分が一番格上だと思っている俊輔は、今までも何彼《なにかれ》となく秋生に仕事を押しつけてきたのと同様に、処理を無理|遣《や》りに引き受けさせた。  なぜ自分がやらなければならないのだという気持ちはあったが、秋生は口論を避けた。  日ごろ、俊輔と由樹也が負っている苦痛と屈辱と秤《はかり》にかけた時に、どちらに揺らぐか、見当が付いたからだ。  面倒見のよいヒロですら、さすがに手伝ってはくれなかったので、結局は、秋生が一人で、徹をビニール袋に納めることになった。  だが、骨が剥きだし、残っている皮膚は白くなり、内臓は粘液化しているようにも見える水死体を手で持つのは、とても不可能だった。  秋生は思いきって死体を跨《また》ぐと、頭から被《かぶ》せたビニール袋を、砂をも巻き込みながら足元まで一気に引っぱろうとした。  作戦は計画通りには行かなかった。  肩や、腰といった骨の部分に引っかかると、そこで勢いが止まってしまうのだ。その度に秋生は死体から離れて、深く息を吸い、ふたたび決死の覚悟で跨《またが》らなければならなかった。  砂の上にこぼれた肉片を、素早く海鳥が狙《ねら》いをつけ、銜《くわ》えていった。  追いかけて取り戻す気力はなく、ヒロもそこまでしろとは言わなかった。  ビニールの口を可能な限り固く結ぶと、秋生は、会うことのなかった仲間、地獄からの脱出を夢見て、叶《かな》わず、ふたたび戻ってきた仲間の残骸を肩に背負って、宿舎へと連れて帰った。  これほど気持ちの悪い仕事をするのは生まれて初めてで、終わった時には、また吐いていた。  こんな時は管理棟から所長が出てこないわけにはいかなかった。  ライフル銃を構えた大木と井藤を従えてきた仙北谷は、十六人の寮生を集めると、形ばかりの黙祷《もくとう》を要求し、それから袋を開いて、全員に中身を見せた。 「逃げたとしても、結局は海流に巻き込まれ、こうして島に戻ってくるんだ」  強烈な腐臭を放つ無惨な遺骸を一人一人に見せた後で、所長は、遺骸の入ったビニール袋をしばらくの間、宿舎の前に置いておけと命じた。 「逃亡者の末路がどうなるか、毎日見ることで君たちの裡《なか》に自制心が生まれるはずだよ」  脱走しようとして、失敗した者の姿を少年たちに見せつけて、心を呪縛《じゆばく》しようというのだ。  だが寮生のなかには、水死体に慣れている訳ではないだろうが、意識から完全に押しやることが出来る者たちもいた。  ヒロや南、俊輔も平気そうで、何時も通りに食事を摂っていたが、秋生と由樹也には食欲はなかった。  朝食も昼食も、「喰《く》わないのか?」と訊《き》かれ、頷《うなず》いた途端に、「じゃあ貰《もら》うぜ」と、周りから手が出て二人の食事は跡形もなく奪われてしまうという、最悪の一日だった。  だが、何があっても、起こっても、一日の仕事は変わらずに行わなければならない。  さすがに夕食には、身体《からだ》が食べることを要求しだし、これ以上他の者に奪われるのも腹立たしいと、秋生は食べる努力をした。  由樹也も必死になって食べた。  努力はしたものの、由樹也は途中で吐いてしまい、その結果として、夜の口腔奉仕を免除されることになった。 「ゲロ吐いたヤツの口に入れられるかよ」というのが玄蔵たちの言い分だったが、由樹也にすれば救われた思いだっただろう。そして、俊輔は相変わらず玄蔵の椅子を務め、『お話係』の秋生は、暴走族時代の話をした。  スピードによる爽快《そうかい》感が、不満と孤独を吹き飛ばしてくれたことで病みつきになり、事故で死んでもいいと思って走り続けているうちに、グループでも認められ、副総長にまで祭りあげられてしまった…など、李が前触れもなく主電源を切り、消灯時間を告げるまで話し続けた。  部屋へ戻ると、先に戻っていた由樹也が、ベッドのなかですすり泣いていた。  俊輔は黙れとばかりに一度由樹也のベッドを蹴飛《けと》ばしたが、直《す》ぐに自分の布団にもぐり込み、十分もしないうちに鼾《いびき》をかきはじめた。  灯台の光が透明なビニールを貼《は》られた窓から入り込んでくるので部屋の中はうっすらと明るいが、眠りが妨げられるほどではないのだ。それに、朝が早いのと肉体労働が続くために、誰もが疲れ切っていた。  けれども秋生の方は、神経が高ぶっているのか寝つかれなかった。  隣では、由樹也が何時《いつ》までも鼻を啜《すす》りあげ、泣き続けている。  身体のどこかに力を入れて踏ん張って立っていないと、精神までも脆《もろ》く崩れてしまいそうな気がするこの島で、何時までもめそめそしている由樹也が忌々《いまいま》しくなってくるが、同時に、すでに寝入っている俊輔の無神経さも、秋生には苛立たしかった。  俊輔に言われて、一人で水死体を片付けさせられたことが、秋生の裡には怨《うら》みとして残っているからかも知れない。 「いい加減に泣きやめよ」  秋生は、そっと言った。 「もう、いい加減にしてくれ」  秋生の怒りを感じて、由樹也がすまなそうに啜りあげた。 「だって…臭いが消えないんだ」 「臭い?」 「あの死体の臭い。鼠が腐った時の臭いと一緒だった……」  言われた瞬間、秋生の胃から喉にかけて迫《せ》りあがってくるものがあった。  咄嗟《とつさ》に手で口許《くちもと》を押さえたが、足りずに、秋生はパジャマ代わりに着ていたTシャツの裾《すそ》で、自分の嘔吐《おうと》を受けとめ、ベッドを飛び降りた。  ベッドを汚したくなかった。  何日も、吐瀉《としや》物の臭いのするベッドで眠りたくなかったからだが、ドアの近くに寝ているのが幸いして、部屋を出てから、思い切り、夕食に食べたものを吐きだした。  苦しんで吐きながら、秋生は由樹也を怨んだ。  由樹也の言葉で、いきなり、秋生のなかに臭いが蘇ってきたのだ。  なぜ、こんなにも鮮明に思い出せるのか、脳のどこが臭いを記憶しているのか、不思議なほどだった。  吐き気が治まるのを待って、秋生はシャツを脱ぎ、廊下を拭《ふ》いた。  廊下の片隅に置いてある防火用バケツの水を使って掃除を済ませると、今度は自分の身体を洗うために、風呂場へと向かった。  今日は風呂の日ではなかったが、大きな浴槽《よくそう》には防火用にいつでも水が張ってあり、水で身体を洗う者もいたのだ。  秋生は、音を立てないように階段を下りて洗濯室へと入った。  手を洗って丹念にうがいをし、さらには歯を磨いた後で、汚れたシャツやズボンを濯《すす》いでから、気持ち悪さが残る身体を洗うために洗濯用|石鹸《せつけん》を持って、浴室へと通じるドアを開けた。  真夜中の浴室に、白い炎のような裸体《からだ》が立っていた。 「なんだ、幽霊だとでも思ったのか?」  驚き、後退《あとずさ》った秋生を見て、クリスは笑った。 「誰もいないと思ったから驚いただけだ」  秋生は乱暴に打ち消し、クリスから視線を逸《そ》らしたが、今度は別の意味で、心搏数《しんぱくすう》が跳ねあがるのを止められなかった。  今は、はじめて管理棟の独房でクリスを見た時の状況と似ている。  その所為《せい》で、恥も外聞もなく性的快感に身悶《みもだ》え、女のように喘《あえ》いでいたクリスを思い出させられてしまったのだ。  あの時、男同士の肉体関係を目の当たりにした秋生は、嫌悪よりも、昂揚《こうよう》を感じた。  自分も欲情したのだ。  しかし、佐古田に犯された時には、クリスと鳩屋から感じた甘美なものがすべてうち砕かれ、屈辱と苦痛だけが残った。  数時間の間に、秋生の心と身体は、感激し、驚き、興奮し、それを恥じ、苦痛と屈辱を受けてしまい、男同士の関係に対する嫌悪だけが残った。  ところが秋生は、ふたたび見たクリスの裸体に、下腹部が疼くのを感じた。  クリスから漂う蠱惑《こわく》的な魅力、そのはかりしれない性的魅力に、重苦しくも甘美な感覚が目覚めてくるのを止められそうになかった。  欲望が、佐古田から受けた暴力といえるセックスと、屈辱の記憶を完全に凌駕《りようが》してしまったのだ。 「お前は正常だ。俺《おれ》を見て、みんなそうなるぜ」  わかりやすい反応を示した秋生を、クリスは誘いの眼眸《まなざし》でみつめた。 「そうか?」  秋生が怒ったように答えるのを聞き、クリスは笑った。 「こんな時間にどうしたんだ? 俺とやりたくなったのか?」 「…吐いたんだ。思いだして、それで……」  またもクリスが笑った。笑いながら、浴槽に渡した頑丈な木製の風呂蓋《ふろぶた》に腰掛け、ゆっくりと長い足を組んだ。 「お前が片付けたんだって?」 「ああ、けど、もう我慢できない。いつまで、玄関においておくんだろう…」  玄関前のビニール袋を見るたびに思い出すだろう。掴《つか》んだ時の感触、担いだ時の重み、そして臭い。  意識が水死体に移ったことで、兆《きざ》した欲望の萎《な》えた秋生の方は、喜んでいいのかどうか判らなかったが、男相手に欲情しているのと、水死体を思い出して吐き気に襲われるのと、どちらがましなのか考えるのも馬鹿らしかった。  秋生は、何枚かに分かれている風呂の木蓋の一枚をずらし、手桶で中の水を汲《く》んで身体を洗いはじめた。  全身が穢《けが》れていることの証《あかし》であるかのように、石鹸の泡立ちは悪かった。  それは、水と洗濯用石鹸のせいだと気がつくまで、秋生は身体にこびりついた死人の腐臭が原因だと思っていた。  癇性《かんしよう》な仕草で身体を洗う秋生をクリスが見ている。  次第に秋生は、クリスの視線が気になってきた。  濡《ぬ》れた髪が、頬《ほお》や首筋に張りついていて、なんとも艶《なま》めかしかった。意識しだすと、また秋生は自分が制御を失い、反応し出すのではないかと恐れた。  クリスも、何らかの事情があってこんな時間に身体を洗っていたのだ。 「……あんたこそ、こんな時間に風呂場でなにしてたんだ?」  気を紛らわすように、秋生はクリスに話しかけた。 「運動したから汗をかいた。それで、寝る前に汗を流そうと思ったんだ」 「誰と、運動したんだ?」  その運動が何であるのか、思い描ける気がしたが、努めてさり気なく、秋生は訊いた。何時もならば、そんなことは訊きはしないが、黙っている方が気詰まりだったのだ。 「海人に決まってるだろ。組み伏せて十秒カウントするベッドルーム・レスリングなんだけど、負けた方が、アレをするんだ」  そっけなくクリスが答えた。 「アレ?」  視線をあげた秋生の前で、クリスは綺麗《きれい》な女顔を仰向かせると、舌を突き出し、舐《な》める仕種をしてみせた。  まるで今、秋生は自分を舐められたように感じて、ドキッとした。 「で…、あんたは勝ったのか?」  クリスは、風呂蓋の上で身体を仰《の》け反らせて笑った。 「負けた。あいつ、強いんだ」  それではクリスは、海人をフェラチオしてきたことになるが、秋生は考えまいとした。 「ウェイトも違うだろう? 仕方ないさ」  慰められたクリスは、今度は秋生を誘った。 「お前も、俺とやるか? レスリング…」 「…いいよ。やらない」 「なぜ? 負けるからか?」  そんなはずはないと秋生は反論したかったが、怺《こら》えた。クリスは、自分よりも一回りも細いのだ。どう考えても負けるとは思えない。——だが、彼と身体を近づけたら、肌を触れあわせたりしたら、完全に理性が飛んでしまいそうな気がするのだ。 「だったら、お前の不戦敗だな」  クリスの手が伸びてきて、秋生は顎《あご》の線を撫《な》でられた。  ズキンッと、またも身体の奥が疼いた。 「意志の強そうな顎だな、眼は意外と穏やかだけど、俺を見て興奮してるだろ」  クリスは、海人にもこんなことをするのだろうか、あの顎|髭《ひげ》の感触を、指で楽しむのだろうか…と秋生は思いながら、されるがままになっていると、いきなり言われた。 「舐めろよ、俺を」 「なんでそうなるんだよ」  秋生は叫ぶと同時に、火に触れたようにクリスの手から飛び退いた。 「お前は負けたんだぜ」 「負けてないじゃないか」 「だったら、俺とレスリングするか?」 「しない」 「みろ、不戦敗だ」  揶揄《から》かわれているのに腹が立ってきた秋生は、突然クリスに飛びかかると、風呂蓋に押し倒して覆いかぶさり、強引に口唇を奪ってから、言った。 「舐めたぜ、あんたの舌を」  荒々しく口唇を塞《ふさ》がれ、息が出来なくなるほど舌を吸われたクリスは、秋生が離れた途端に悪態を吐《つ》いた。 「……下手くそ」 「悪かったな」  頑丈な風呂蓋だが、男二人の体重をどうにか支えている。それをいいことに、秋生はクリスにのし掛かったまま離さず、クリスの方も、両足の間に入り込んだ秋生を、身体の上に乗せたままにしていた。  触れあったクリスの身体は、全身の筋肉が引き締まっていて、見た目よりも硬く、いい匂《にお》いがした。 「初めてか? お前は、男とセックスしたことないのか?」  秋生は、自分が佐古田に犯されたのをクリスが知らないはずはないと、逆に聞き返した。 「あんたは、あの夜どこへ行っていた?」 「どの夜だって?」 「俺たち三人が島に来た夜だ。独房に入れられたけど、あんたは夜中にいなくなってた」  秋生は、両手首を掴んで押さえつけているクリスにいっそう身をよせ、眼を覗《のぞ》きこんだ。  クリスの顔立ちは美し過ぎる。あまりに整っていて、生きている人間ではないような気がするほどだが、彼が生きていることが証明されるのは、暗がりの中でもキラキラと光る眸《ひとみ》の存在によってだった。 「所長《パパ》に呼ばれたに決まってるだろう。あいつの相手をしてるんだぜ、俺は…」  悪びれた様子もなく、クリスはそう言い、揶揄《やゆ》する口調で付け加えた。 「島には女がいないからな、そのうちに、お前も襲われるぞ」 「あの夜、やられた…。痛いだけで屈辱的だった」  クリスは知っているものと思いながら、秋生は素直に告白した。 「それは相手が下手だったんだ。…誰だ?」 「佐古田だ」 「あいつ、俺ともやったのに、元気だな」  クリスは笑った。笑いながら、両足の間にいる秋生の身体へ、変化している自分の先端を押しつけた。  ビクッと秋生は全身で反応してしまった。  下肢から痛いような前兆が脳まで駈《か》けあがった。 「俺は、お前みたいな男が好みだな」  硬さを増した秋生を感じながら、クリスが思わせぶりに言ったので、つい、秋生の方も口走っていた。 「あいつはどうなんだよ、海人は」 「海人か、あいつも好みだ」 「俺とあいつだったら、全然タイプが違うだろうッ」  傷口にでも触れられたように秋生が顔をしかめたのを見て、クリスは片眉《かたまゆ》を持ちあげた。 「そうでもないさ。お前たちは似てるんだ」 「嘘《うそ》だろう」  驚きのあまり、——あるいは不本意だと感じたせいか、秋生は反発を込めて訊《き》いた。 「海人とあんたは、仇《かたき》同士なんだろう?」 「おしゃべりな奴《やつ》がいるんだな」  窓から入ってくる灯光に、クリスの碧《あお》い眸が金属的に光ったように見えた。  途端に、秋生の背筋に冷たいものが走った。 「俺だって、周りの奴がどんな理由でここに来たのか知らないのは不安なんだぜ」 『お話係』に任命された秋生は、話せる範囲で自分の過去を公表してしまったが、他の寮生に関しては自分の目で見た印象と、ヒロが教えてくれた事柄しか判らないのだ。  そう言った秋生に対して、クリスは甘い声で囁《ささや》いた。 「俺を知りたいか?」 「あ、ああ…」  秋生が答えた次の瞬間に、予期していなかった事態が起こった。 「ウワッ」  声を立てたのは秋生の方だった。  今まで身体《からだ》の下に組み敷き、両手首を押さえていたクリスの身体が、まったくの予備運動もなく、弾《はじ》けたバネのような力で起きあがったのだ。  下から持ちあげられる秋生の身体も立ちあがったが、すかさず膝裏《ひざうら》に蹴《け》りが入り、今度は床に敷かれた簀《す》の子の上に、今までとは逆の形、——クリスに背後をとられた形で、押さえつけられてしまった。 「なっ…にするん…だっ…」  肩口を後ろから抱えられ、背から腰にかけてを、クリスの下肢によってがっしりと挟まれた秋生は、締めつけられて呻《うめ》いた。 「ベッドルーム・レスリングさ。動くなよ、関節が外れる」  秋生は息を呑《の》んだ。肩の骨がギリギリと鳴り、まったく動けないのがどうしてなのか理解できなかった。  理解できないと同時に、打ちのめされるほどショックだった。  秋生には、クリスを所長たちのペット、宿舎では海人に守られている弱者だと侮っていたところがあったのだが、その考えがうち砕かれた衝撃だった。  クリスの方は、さらに自分の上体を使って秋生の抵抗を封じてしまうと、片手で首筋の血管を押さえ、指先で圧迫を加えた。  信じられないほどの力が指先にあった。  血の流れを止められた秋生は、頭のなかがボウッと霞《かす》むように感じ、身体の力がぬけおちた。 「俺の勝ちだな?」  背後からクリスが覆いかぶさるようにして、耳元で囁いた。 「あいつに犯《や》らせたんなら、俺にも掘《や》らせろよ」  次に囁かれた言葉の意味が秋生の脳に達した時には、すでに遅かった。  クリスの手が腰をひらき、指先が秋生の内に挿《はい》ってきたのだ。 「よせ、やめろッ、やめろッ」  巧みなクリスは、石鹸《せつけん》の泡を使って、秋生に痛みを感じさせなかった。  けれども、芯《しん》から力が抜けてしまうような妖《あや》しい感覚が秋生を叫ばせた。 「やめろッ!…」  秋生は、喚《わめ》き、足掻《あが》き、抵抗の限りを尽くしたが、クリスを止められなかった。 「ううっ……く…そッ……」  指がひき抜かれ、燃える矢のようなクリスが秋生の内へ入ってきた。  激痛に呻いた秋生の背後でクリスは身を屈《かが》め、上体を押しつけ、いっそう下肢を送り込みながら囁いた。 「口を開けて息を吐《は》けよ」  なだめるように喉元《のどもと》を撫《な》でられて息を吐いた秋生は、不要な力が抜け落ちるのを感じ、また、深く入り込んだクリスの存在をも感じとった。 「堅くなるな、お前にもいい思いをさせてやるから」  そう言ったクリスは、ゆっくりと前後に動きだした。  信じられないことに、最初に感じた痛みは次第に薄れていき、逆に、秋生の前方には、身体中の血液と情熱が流れ込み、新たな苦痛が起こってきた。  クリスは前後に抜き差しを繰り返していた身体を、秋生の奥に押し込んだ時、左右に揺すった。 「ウウッ!」  内臓を攪拌《かくはん》された秋生が、堪《たま》らずに呻きを洩《も》らしてしまうと、クリスは素早く退《ひ》いて行き、ふたたび深く侵入した。  ところが、今度は乱調を加えずにクリスは退いて、覚悟して構えていた秋生から、呻きとも、ため息ともつかない声を洩らさせた。  秋生に予測できない形でクリスの攻撃は仕掛けられてきたのだ。  次第にクリスの動きが早く、激しくなってくると、俯《うつぶ》せた格好の秋生は、床に触れてしまう前方を守るためにも、腰を浮かせぎみにしなければならなくなった。  それは、またいっそうに、クリスを受け入れる姿勢となった。  引き締まったクリスの下腹部から下肢にかけてが、抽送のたびに身体に触れる。  秋生は、その筋肉質で硬い感触に戦《おのの》き、同時に、なめらかな皮膚《はだ》の感触に恍惚《こうこつ》となった。  そればかりか、クリスの情熱に奉仕する部分に、経験したことのない甘美な疼《うず》きが生まれてきていた。  クリスの付け根が、ピクリと動いたのを秋生は感じ取った。 「あ……」  かすかにクリスが声をあげたように聞こえたが、秋生の声だったかも知れない。  続けざまにクリスの身体の奥から、快楽の律動がわき起こってきて、それは秋生にも伝染した。  海の底から浮上する泡のように、秋生のなかに快感が湧《わ》きあがってきた。  その泡は激しくなり、次第に大きくなり、秋生を内から包んで、苦痛の深海から浮上させて行こうとするのだ。 「いいぜ、お前……」  慄《ふる》えるような痙攣《けいれん》の後で、クリスの身体が柔らかい猫のようにしなり、身悶《みもだ》え、それから、ぐっと力が入って、逆に固くなったと感じたら、秋生のなかへと弾けた。 「アアッ!」  同時に、秋生は、自分を造っている身体中のバネがいっせいに引き締まり、限界まで縮んだあげくに切れてしまったかのように、突然すさまじい高みへと跳ねあげられ、歓喜を味わっていた。  秋生はクリスに犯されたのではなかった。  お互いに愉《たの》しんだのだ。  受け入れさせられた瞬間に激痛はあったが、佐古田に味わわされた時のような屈辱感はなかった。  むしろ、佐古田との経験ですっかり強張《こわば》ってしまった欲望、堰《せ》き止められていた快楽を、クリスは易々《やすやす》と引き出し、解き放ってくれた——。 「あんた、島に何年いるんだ?」  起きあがって両膝を抱えた秋生は、木蓋《きぶた》をずらして水|風呂《ぶろ》に入り、泳ぎはじめたクリスを見ながら訊いた。 「二年だ。十七の時からいるけど、そろそろ飽きてきたな」  暗い海のように見える風呂の中で、まっ白い身体が泳ぐ姿は、こわいほど綺麗《きれい》で、幻想的なものがある。  目を背けて、ふたたび欲情が募ってこないように秋生は気をつけなければならなかった。 「この島がどこにあるか判るか?」  クリスならば知っているのではないかと思い、秋生は訊いてみた。 「知らない」  風呂の縁に凭《もた》れかかったクリスが、答えた。 「見当くらいつかないのか?」  所長のところで何か情報を得てはいないだろうかと秋生は期待しているのだ。 「逃げたいのか?」  唐突にクリスが言った。 「逃げられると思ってるのか?」 「クリス」  厳《おごそ》かに聞こえるほど、低く、よく通る海人の声がした。  何時《いつ》から居たのか、海人が脱衣所側のドア口に立っていた。  ビニール袋に入った玄関前の死体は、一週間後の昼過ぎには片づけてよいことになった。  昼食の後で、その指示が出て、片づけに行かされたのは秋生だったが、寮長の圭が案内役もかね、付き添ってきた。 「管理棟の裏に慰霊碑があるんだ。そこに骨を入れる」  黒ずくめの服を着た長髪の圭は、烏のようで、葬儀の参列者に相応《ふさわ》しかったが、手伝ってくれる気は更々ない様子で、結局は秋生が一人で担ぎ、運ばなければならなかった。  秋生は、漏れてくる臭いと、肩に掛かる感触に何時まで持ちこたえられるか自信がなかったが、玄関を出入りするたびに思い出させられる不快感から解放されるのならば、一時の気持ち悪さと引き替えにしてもよかった。  管理棟へと続く坂道を登り、松林に入る途中で、秋生は視線を感じ、宿舎の方を振り返った。  二階端の窓に腰掛けたクリスが、秋生を見ていた。  離れていても、彼の碧《あお》い眸の色が見えるようだった。  あの夜、浴室でクリスと関係してから、秋生は気まずさのようなものがあり、彼を避けていた。  性的な歓喜を味わわされたことで、どこかクリスに征服された気持ちがあるのと、クリスの美貌《びぼう》、しなやかな白い肢体から連想させられる女性的なものに騙《だま》されていたと気づかされたからでもあった。  そのクリスが、窓からこちらを見ている。  秋生が立ち止まったのに気づき、振り返った圭も、窓辺にいるクリスを見たが、掛けている眼鏡を中指で押しあげて戻すと、興味なさそうに踵《きびす》を返した。  一人で先に歩いて行ってしまう圭を追いかけて、秋生は走らなければならなくなり、直《す》ぐに、宿舎と管理棟を区切る松林が二人を遮った。  やがて灯台の付いた灰色の管理棟が見えてくると、臭いを嗅《か》ぎつけたのか、盛んに犬が吠《ほ》えはじめた。犬が吠えても、職員は誰も出てこなかった。  脇《わき》を回って建物の裏手へ行くと、見覚えのある鉄格子の窓が並んでいた。  あの相談室の奥にあった独房の窓だった。そこからそれほど離れていない崖《がけ》の部分、まばらに松の植わった所に慰霊碑が建っていた。  慰霊碑というよりは、祈りの文句が彫られた鉄製扉付きの焼却炉に見える。  圭は、鉄扉を持ちあげ、中にビニール袋から出した遺体を入れろと秋生に言った。  秋生は、口を開いたビニール袋の底を持ち、何も見ず、何も嗅がないで済むように、眼を閉じ、息を止めて、一気に暗い穴の中へ、かつて徹という名前だった仲間を滑り落とした。  穴からは、ゴウゴウと不気味な音が聞こえ、波の音か? と思ったが、深く考える間もなくビニール袋を空にして、鉄の扉を閉めた。 「ビニール袋は、戻ってから燃やすんだな」  促されて圭の後から慰霊碑の前を離れた秋生だったが、後になって、一度も手を合わせてやらなかったことを思いだした。  だがきっと、自分が死んだ時も、誰かに穴に放り投げられたままになるのではないかと思うと、次第にどうでもよくなってきた。 「終わったか?」  管理棟の玄関にあるのは、鉄製の頑丈な扉だ。その扉の前にいた仙北谷所長から、声を掛けられた。 「終わりました」  圭が答えた。 「よし、くれてやる、持ってけ」  それだけ言って、まるで疫病を閉め出すように仙北谷は入口の鉄製扉を閉じてしまったが、彼が立っていた所には、缶ビールが二本置いてあった。  圭が行って取ってくると、一つを秋生に手渡し、二人は宿舎へと戻る道を下った。  高台にある管理棟の位置からは、島のすべてが見渡せた。  宿舎、白いハウス、畑、風車、その先に拡がっているのは、時おり銀色の波が光る、美しいが、絶望の証《あかし》でもある紺碧《こんぺき》の海。  松林を下って戻る途中で、ヒロたちが牛を移動させているのが見えた。畑の作物を荒らさないように、牛たちは隔離された場所にいたが、牧草が不足するために、時々移動が必要なのだ。  のんびりと歩いている牛と、それを追い立てているヒロと南は、どこか楽しそうにも見える。手伝わされている由樹也は俯《うつむ》いてばかりで、俊輔は今にも牛を蹴飛《けと》ばしそうに荒々しく追っていた。  本来ならば秋生も手伝わなければならないのだが、急ぐ気にはなれなかった。  畑係の三人が、かたまって収穫物を洗っているのも見える。  島の少年たちは全員が仕事を割り振られ、働かなければならなかったが、受け持つ仕事によってそれなりの役得があった。  例えば畑係は、雨の日は休みになり、トマトやキュウリの味見が出来たし、ハウス係は、温度調節を覚え、管理を怠らなければ収穫の時に働くだけだった。  雑用の新入りだけが、一日中、嫌というほどこき使われ、報われることが少なかったのだ。  新入りの中でも、秋生が一番損な役回りだったが、俊輔と由樹也にすれば、そうは思っていないかも知れなかった。  何しろ二人は、夕食後に最悪の奉仕を要求されているのだからだ。 「ビニールを燃やせよ」  宿舎に着くと直ぐに、圭がそう言った。言われるまでもなく、秋生もそのつもりだったので、裏へ回り、風呂場の焚《た》き口へと行った。  見届けるつもりなのか、付いてきた圭が指示した。 「風呂|釜《がま》で燃やすと、釜が傷むからな、バケツで燃やすんだ」 「さすがは寮長だ」  皮肉もまじえて秋生は答えると、鉄製バケツの中にビニールを押し込み、マッチを擦って火を点《つ》けた。オレンジの炎があがり、それから青い火に変わって、ビニール袋は燃えはじめたが、残っていた臭いが漂った。 「吐く……」  呻《うめ》いて後退《あとずさ》った秋生とは裏腹に、圭はバケツの火に魅入られたように近づいて行き、炎が完全に消えてしまい、ビニールが黒い塊になるまで見届けた。  それから圭は秋生の方を振り返った。 「貰《もら》ったビールは他の奴《やつ》らに奪られないように隠しておくか、今飲んでしまうんだな」  言われて、秋生は飲む方を選び、意外なことに、圭も付き合ってプルトップを引いた。 「あの穴、慰霊碑の穴は、どうなってるんだ?」  並んで階段に座り、ビールを飲みながら、秋生は訊《き》いてみた。 「あの下は海食洞《かいしよくどう》なんだ。でも入り組んだ岩で出口が塞《ふさ》がれてるから、海には流れ出さないようになってる。それを利用して骨を棄てさせてるのさ」  投げやりに言った圭の口調が、かすかに変わった。 「死んだものは、みんな、あの穴に入れられる…。俺《おれ》も、お前も……たゆたう波に洗われて、骨は砕け、いつしか砂になるんだ」 「家族の所には返されないのか?」  秋生の問いかけに対して、圭は、眼鏡の奥から、秘《ひそ》やかで、冷たい目を向けてきた。 「遺体を? 死んだ理由が必要になるだろう? それに、お前も、俺も、待ってる家族はいないんだ」  ——そんなはずないと反論したかったが、秋生は諦《あきら》めた。その通りだったからだ。 「くそっ」 「お前は、新入りの中じゃ一番見所がある」  突然、痩《や》せた黒い烏のような少年が言い、秋生は苦笑するしかなかった。 「一番下っ端だから、パシリさせられてんだ」  久しぶりのアルコールが、秋生の理性を侵食していた。普段ならば控えることも、今は口に出来そうだった。 「あんた、何年いるんだ?」 「四年かな」  あっさりと圭は答えたので、秋生の方が驚いたくらいだが、四年という年月の方にも驚かされた。 「長い方だな?」 「ああ、長い方だ、みんな二年くらいでおかしくなっていくからな」 「おかしくなる?」  圭は眼鏡を外して胸のポケットにしまうと、ビールを一口飲んでから答えた。 「自殺するか、玄蔵みたいにゴッドハンドの中毒者《ジヤンキー》になる。ここでの暮らしにやりきれなくなって、花に手を出すんだ」 「あんたは?」 「俺に花は必要ない。そんなものがなくとも生きる目的があるからな」 「目的?」 「俺は、世間が俺のことを忘れてくれるのを待ってるのさ……」  唐突に、圭の身体《からだ》から腐臭を感じたように思った。  死んで、あるいは殺されて、内臓から腐っていった者の臭いを、秋生は感じたのだ。  新入り病を患っている秋生は、黙っていられなくなった。 「あんたは、人間を解体してたって本当か?」 「誰が言った?」  だが教えない秋生に、圭の方から答えを出した。 「ヒロだな? あいつの言うことは信じない方がいい。あいつ、人のことはあれこれ言っても自分のことは決して話さないだろう。そういう奴は信じるな」  確かに、ヒロは他の寮生についての情報は惜しまずに教えてくれるが、自分や南の過去は話さないのだ。  飲み終わったビールの空き缶を、圭は手のなかでクシャッと潰《つぶ》し、立ちあがった。 「空き缶は、調理場の裏手にある缶専用ゴミ箱に棄てておくんだな。それから、身体洗っておけよ、徹の臭いがする」  ギョッとした秋生を見て、圭は、すうっと剃刀《かみそり》のような微笑を浮かべると、行ってしまった。  圭から感じた臭いは、自分の身体についているものだったのかも知れない。そう思うと、もう我慢がならなくなった。  秋生は、急いで服を脱ぎ、浴室に入って水と洗濯|石鹸《せつけん》で身体を洗い、ついでに着ていた服もすべて洗った。  洗い終わっても新入りの仕事に戻る気にはなれなかった。  そのまま浴室で蹲《うずくま》り、膝《ひざ》を抱えて時間が過ぎるのを待った。今日くらい、自分を甘やかして、サボリの褒美をくれてやってもいいような気がしたのだ。  夕食の鐘が鳴ってようやく、秋生は濡《ぬ》れた服を着て部屋へ戻り、改めて着替えると、ホールへ降りた。  テーブルには全員が着いていて、遅れて入ってきた秋生を見たが、表面的には無視をした。そんな中で、南が無邪気に手をあげた。 「秋生っ、ここ、空いてるよ」  空いている席を教えられ、秋生はスパゲティの載ったトレーを持ってそちらへと行った。  先にテーブルに着いていた由樹也が、皿の中でスパゲティをかき回している。変だと思いながらも、秋生は彼の隣に座った。 「大変だったね。臭かった?」  南の言葉に秋生はハッとなり、自分の身体にまだ、——徹《トオル》の臭いがついているのかと狼狽《うろた》えた。 「あ、ごめん、思い出させちゃった?」  秋生の様子に気が付いて、南がぺろりっと舌を出して謝った。揶揄《から》かわれたのか、それとも本当に無邪気で、言っていいことと悪いことの区別がつかないのか、判断出来そうにない。  向かい側の席にいるヒロも、秋生に声を掛けた。 「助かったよ。普段だったら、脱走者は一ヵ月は置いておかれるんだぜ。鳥や鼠が啄《ついば》んでビニール袋から中身が出たりで、これから時期的にも臭いが凄《すご》くなるし、一週間で片づけていいなんてラッキーだったぜ」  午後から仕事に来なかった秋生に対して、ヒロたちは文句を言わなかった。  秋生の行った仕事の方が大変だと判っていたからだ。  皆がそう思っているのか、秋生には判らなかった。それでつい、周りの眼が気になり、見回しているうちに、クリスがいないのに気がついた。  海人が一人で食事を摂《と》っている。 「クリスがいない…」  秋生の呟《つぶや》きを南は聞き逃さなかった。 「所長のベッドだよ」  すかさず、俊輔が内心の不快感を顔に出した。  彼は、クリスが嫌いなのだ。  あの夜、「殺せ」と言われたことを、決して忘れていないのだ。 「クリスは、徹を片付けさせてもらった礼をしにいったのさ」  ヒロが、南の言葉では不足だった部分を補って、秋生に教えてくれた。 「礼だって?」 「だーから、所長はクリスと引き替えに徹の始末を認めたんだよ」  ヒロに教えられた瞬間、秋生の脳裏に、深夜、浴槽で泳いでいたクリスの白い裸体が通り過ぎていった。 「俺は、あいつに借りが出来たってことか?」  次にそう訊いた秋生を、怪訝《けげん》そうにヒロが見た。  午後から陽光を浴びて仕事していた彼は、顔に散った雀斑《そばかす》が増え、濃くなっている。 「なんで? 借りがあるとすれば、俺たち全員だぜ。でも、クリスは自分が嫌だったんだろ。だから所長をたらし込んで片づける許可をもらったんじゃないか? 島じゃ、余程のことがないと他人のためには骨を折らないのさ」  秋生は、自分が自意識過剰だったのかと思い、ヒロの言葉に黙って頷《うなず》いた。  隣で聞いていた俊輔は、感じている怒りか、不快か、あるいは両方の感情で、顔を歪《ゆが》ませている。  由樹也は、まだ皿の中をかき回していた。 「起きてよッ、朝だよ。早く、早く起きて、産卵がはじまったんだよ。行かなきゃ」  翌朝、叩《たた》き起こされた秋生たちは、ヘルメットと布袋を渡され、まだ行ったことのない島の西方へと連れて行かれることになった。 「絶壁に、いっせいに産むんだ。卵はすっごく美味《おい》しいんだよ。獲《と》りに行ったら内緒で食べれるよ」  先に立って歩きながら、南は興奮を隠せずに、喚声《かんせい》に近い声をあげている。 「生卵なんか、嫌いだ」  眠り足りない俊輔が怒って言うのも、南には通じなかった。 「すぐに好きになるよ。さあ急いで」  強い海風が吹きあがってくるために、植林された松が林ごと斜めに傾いてしまっている地域をぬけると、風力発電用の風車が見えてきて、それが絶壁が近い合図でもあった。 「今日は注意しないと危ない場所なんだ。なにしろ、海鳥は絶壁の岩棚に巣を作ってるから、そこまで行って、卵を獲るんだ」  連れてこられた絶壁から下を見た瞬間、秋生は腹の奥がギュッと引き締まるのを感じた。  俊輔も由樹也も、一気に目が醒《さ》めたように、顔つきが変わった。  海抜四十メートルでしかなかったが、截然《せつぜん》たる岩壁の下は、激しく打ちつける波によって海岸線が浸食され、尖《とが》った岩礁が拡がるという、様々な自然の悪意に満ちていたのだ。  周りは、一面の海でもあった。  遠くを眺めやっても、船の一|艘《そう》も見えない。  見えるのは地平線だけなのだ。  世界中が滅び、絶え、この島だけがぽつんと取り残されたような錯覚に陥る。  海とか、孤島とかから連想させられるロマンチックなものがこの島には一切なかった。それを改めて思い知らされるような場所だったのだ。  ヒロから簡単な説明を受けただけで、秋生たちは岩棚をつたって巣まで行き、中に産み落とされている卵を獲って来るという作業に取りかからなければならなかった。  絶壁は屏風《びようぶ》を思わせ、その岩棚に営巣する海鳥の卵を獲るのは、ほとんどロック・クライミングの世界だった。それも、命綱なしの、落ちたら確実に死ねるという、状況でだ。  秋生は、巣を見つけ、足場になる岩棚を確認してから挑んだが、吹きあげてくる風よりも、突然、横から吹いてくる風にバランスを崩されないように、細心の注意を払わなければならなかった。  天敵のいない海鳥たちは、最初はなにが起こったのか判らない様子で狼狽《うろた》えていたが、そのうちに、事態に気がつき、攻撃を仕掛けてきた。  追い払いながら、秋生はゴルフボール大の卵を、一人で五十三個も獲った。 「才能あるぜ」  そう言ったヒロが四十個、南も四十一個、由樹也は十二個、俊輔は二十七個だった。  数え終わった後、全員で一つずつ卵を味見した。 「うまい…」  俊輔が声を発した。  濃厚で、元気が出てくるような卵の味に、最初はふてくされていた彼も考えを改めた様子だった。 「ね、美味しいでしょう。明日にはもっと産まれてるよ。でも親鳥も警戒してるし、獲りやすい巣のは今日全部さらっちゃったから、どれくらい獲れるかわかんないけどね」  南が自慢げに答えた。  それから、ヒロは、集めた卵を四個ずつ全員に配った。 「これは役得。命がけの駄賃ってもんだな。自分で食べてもいいし、誰かにやってもいいぜ」  全部で一七三個という大猟だったこともあり、命がけで獲ったのだからそれくらいは許されてもいい気がした。 「残りは管理棟に売って品物を貰《もら》ったり、李に渡して俺たちのおかずになる。ここには鶏がいないからな、新鮮な卵はこの時期にしか食べれないんだ。けどな、俊輔はその四個を玄蔵に持ってくんだな。それで、これからの椅子《いす》を勘弁してもらうんだ、巧《うま》く出来るか?」  ヒロのアドバイスに、俊輔は神妙な顔をして頷いた。  こんなに素直な俊輔は初めてだったが、次にヒロは秋生の方を見た。 「お前もだぜ、前に殴った直之たちの部屋に差し入れるんだな。あの喧嘩《けんか》は不問になってるし、あいつらも持ち出さないけど、忘れた訳じゃないからな、価値のある品物を差し入れて謝っておくのがいいのさ」  言われて秋生も頷いた。  喧嘩をすれば、直之たちには負けない自信があったが、腕力を頼りに生きてゆくのはこの島では不可能であり、何よりも先住者である彼等には、表面だけでも、従わなければならなかったのだ。  ヒロは、由樹也には何も言わなかった。  由樹也は、貰った卵を手のなかで転がしていて、危うい精神状態にいるように思われた。 「さあ、宿舎に戻ったら、次は薪拾いだぜ。朝飯までに一人十袋を集めておくんだな」  卵獲りがはじまったからといって、決して日課を免除しないヒロが、笑いながら付け加え、先に立って宿舎の方へ歩いて行った。  クリスの部屋は二階の右側で、一番端にある。  昨夜、所長に呼ばれて管理棟へ行ったきり、まだ戻っていないと思った秋生は、そっとノブを回し、ドアを開けた。  ところが、窓際のベッドに、毛布にくるまって眠るクリスの姿があった。  毛布の下はどうも裸らしいと気づくと、秋生は落ち着かない気持ちになってきたが、とりあえず、持ってきた卵をおける場所を探そうと、部屋の中を見回した。  初めて入るクリスの部屋は、秋生たちと同じ十畳でも、一人で使っているために広く感じられ、壁際には木製のベンチと戸棚が置かれていた。  戸棚には、クリスが付けている金貨のペンダントやピアスなどの装飾品に、缶ビール、ウイスキー、ペットボトルのミネラルウォーター、ナッツの缶詰などが並び、床に敷いてくつろぐ時に使うのか、丸めた絨毯《じゆうたん》が立てかけてあった。 「どうした、珍しいか?」  クリスが眠っているものとばかり思い、無遠慮に部屋の中を見回していた秋生は、声を掛けられ、慌てて振り向いた。  眠そうに片目をあけたクリスが、ベッドの中から秋生を見ていた。 「黙って入って悪かった…」  秋生はそう言うと、ベッドのクリスに近づき、握ってきた卵を差し出した。 「産卵がはじまったんだ。獲ってきた」 「俺に?」  秋生は頷き、心から言った。 「徹のこと、ありがとう…」  クリスの方は、島では一度も聞いたことがない言葉の出現に、彼らしくないほど驚いた様子だったが、直《す》ぐに打ち消した。 「なに言ってる。お前のためにやったんじゃないぜ」 「それでもいいんだ。助かったぜ、ありがとう」  二度もその言葉が自分の部屋の中に漂ったので、クリスは面白がって笑い、腕を伸ばして卵を受け取った。  クリスの手首に、縛られた縄の跡が残っていた。  秋生は眼を逸《そ》らし、ふたたび部屋の中を見回した。  どの部屋にもある作りつけのロッカーには、衣類や、タオルなどの日用品がぎっしり入っている。 「いい暮らししてるな」  これも秋生の本心からの言葉だった。それ故にか、内容がどうであれ、クリスもはぐらかさずに本当のことを答えた。 「所長と寝てるからな、あの変態」  卵を持った自分の手の、縄目の跡《あと》が残った手首を見ながら、クリスは秋生に訊いた。 「あいつが、俺にどんなことするか知りたいか?」 「いや、知りたくない」  秋生が否定したにも拘《かか》わらず、クリスは話しだした。 「あいつはマゾなんだぜ。奴隷に落とされて、鞭《むち》で打たれたり、踏まれたり、犯《や》られまくる王子様役でさ、それが突然爆発して、悪者の俺を倒して王子に返り咲き、今度は俺を奴隷にして仕返しするっていうのがパターンなんだ」  ベッドに起きあがったクリスは、仙北谷に打たれた鞭痕の残る背中を秋生の方に向けた。  まっ白い背中から尻《しり》にかけて、赤くみみず腫《ば》れになった鞭の痕が、からみつく蛇のように残っていた。 「世の中には、俺みたいなの殴って嬉《うれ》しい奴《やつ》と、俺に殴られて嬉しい奴がいるんだぜ」  それにしては、仙北谷のストーリーには、彼の鬱屈《うつくつ》が籠《こ》もっている気がする。そんな男の暴力を受けるクリスはどんな気持ちなのだろうか…秋生には推測するのも難しかった。 「手当てしなくていいのか?」 「あいつの鞭じゃ痕は残らないさ。それなのに、ヒイヒイ言わされる方が大変なんだぜ」 「なんで、そんなこと教えてくれるんだ?」  昨夜、所長がクリスを相手にどんな風に愉《たの》しんだのかを、秋生は知りたくなかった。  本心から言えば、知りたかったが、知れば自分の裡《なか》にあるどこかが痛むか、傷つけられる予感があったので、避けたかったのだ。 「お前が、他の奴らのことを知らないと不安だって俺に言ったんだぜ」  窓に寄りかかったクリスは、悪戯《いたずら》な子猫のように瞳を輝かせていたが、非難する口調になった。 「そうだったな。けど、あんな奴のことは知らなくてもいいのさ」 「だったら誰を知りたい?」 「あんたや、海人のこと…かな」  咄嗟《とつさ》に、秋生の口から言葉が吐《つ》いて出た。たった今、自分で回避しようとした事柄を、今度は自分から招き入れている矛盾に、気がついていなかった。 「お前、海人が好きなのか?」  改めてクリスが訊き返してきた。 「そいつは、俺のタイプじゃないな」  秋生が答えるよりも先に、海人が答えた。 「またあんたか…」  振り返って、戸口に立つ海人を確かめた秋生は、呟《つぶや》かずにはいられなかった。  何時《いつ》も、クリスと一緒にいると海人がやって来る。海人は、大柄で、たくましいにも拘わらず、獲物に忍び寄る虎のように、ひっそりとやってきて、突然に存在感を顕《あら》わに示すのだ。  二度目の秋生は、それほど驚かなかった。ただ、海人を話題にしていたのを聞かれたのはばつが悪かった。 「朝っぱらから話し声がすると思ったら、またお前か」  逆に海人にも同じ言い回しで秋生は揶揄《から》かわれた。まだ海人は寝ていたのか、タンクトップに、下はジャージのズボンといった姿だ。  クリスの方は海人に向かって、持っていた卵を放り投げた。 「茹《ゆ》でてくれ」  飛んできた卵を受け取った海人だが、手にした途端に、指先で殻に切れ込みを入れ、秋生が抗議する間もなく、中身を自分で食べてしまった。  卵の殻をドアから廊下に棄てた海人は、部屋の中に入ってくると、秋生を前にして立ち止まった。 「お前——…」  凄《すご》みを備えて整った顔立ちは精悍《せいかん》で、歳に似合わないほどの落ち着きがあり、海人は、話す時も身じろぎひとつしない。 「なにを嗅《か》ぎ回ってるんだ?」  視線もひとつに定まったままで、相手を威嚇し、射るようだが、口許《くちもと》だけは、言葉を繰り出す時でも、閉じている時でも、シニカルに両端が持ちあがっていた。 「新入り病なんだ。……恐いんだよ、あんたたちが」  秋生は答えた。 「島じゃ恐いなんて言葉を口にしたら最後、ずっと臆病《おくびよう》者と馬鹿にされるぞ」 「別に構わないさ、恐いものは恐いんだ。それを克服するためには、まず自分で恐いんだって認めなきゃな」 「…で、誰が一番恐いか判ったのか?」  挑むように秋生は答えた。 「あんただよ、海人」  海人がにやりと笑った。虎が笑うとそんな顔になるのかと思われるほど、獰猛《どうもう》で、けれども愛嬌《あいきよう》のある顔になったが、眼は笑っていなかった。 「臆病者を装って賢く生きる動物もいるぜ」  緊張感が漂う二人の間にクリスが割って入った。  その臆病者を装う賢い獣は、クリス自身のことであるかも知れなかった。あるいは、ヒロかも知れない…と、秋生は思った。彼も、臆面もなく恐いと言ったのだ。 「だったら俺《おれ》の過去を教えてやる。本名は飛島海人、二十歳だ。十六の時からアングラのファイト・クラブで殴り合いの試合をして稼いできた。相手の頭蓋骨《ずがいこつ》が砕ける音を聞いたことはあるか? 顎《あご》が外れて口が開いたままになるんだぜ」  眼をギラギラさせながら、海人は残忍に微笑《ほほえ》んだ。彼が、過去の興奮を思いだし、自分の趣味と職業が一緒であることを認めた瞬間だった。 「俺には腹違いの妹がいたが、そいつはクリスって男娼《だんしよう》に入れあげたあげく、捨てられて自殺した。俺はクリスに復讐《ふくしゆう》するつもりで探したが、その頃には島に送られてやがったんで、まったく見つけられなかったのさ」 「逃げたんじゃないぜ。俺は自分の父親に、目立つから邪魔になったって理由で売られたんだぜ。もっともあいつは、変態男の愛人用に売ったつもりで、この島のことなんか知らないだろうけどな」  島に送られて来た者たちには、誰にも物語があるのだ——。 「とにかく、俺はあちこち手を回してクリスの行方を捜し、この島を見つけたのさ」  クリスが海人の不足を補った。 「俺を殺すために乗り込んできたのはいいが、帰れない島だったって訳だな」  言った途端に、クリスは海人の大きな手によって頬《ほお》を打たれ、ベッドに突っ伏していた。  秋生は驚いたが、ベッドに倒れたクリスの方は、毛布を抱えて笑いだした。  背筋を捩《よじ》らせ、赤い鞭痕を生き物のようにうねらせながら笑い続けるクリス。  突然、海人は着ているタンクトップのシャツを脱ぎ、みごとな肉体をあらわにした。  発達した胸からねじれたように括《くび》れていく腹部には、強靭《きようじん》な筋肉組織が隠れているのが判る。海人の肉体は、女の肉体を見て、触れたい、愛撫《あいぶ》したいと思うのと同様に、触れてみたい、あるいは殴ってみたいという欲望を喚起させる魅力があった。 「よせよ、まだ力が入らない」  相手を怒らせる笑いを納めれば事態は好転するかも知れないのに、クリスの方は喉《のど》を鳴らしたまま、のし掛かった海人を押しやった。  獰猛な虎である海人は、逃がさなかった。彼は、古い傷をかきむしられた痛みと怒りとをパワーに変えて、クリスを押さえつけに掛かっていたのだ。  クリスの背後から両手を脇《わき》へと通し、羽交い締めにしようとする。するとクリスは素早く身を返して海人の腕からすり抜けたが、ベッドを降りる前にまたも掴《つか》まった。 「やめろよ、痛いんだから」  何時でも、愛撫されるのが大好きで、待っている猫みたいにふるまっているのに、いざそうされようとするとクリスは逃げるのだ。 「どこが痛いんだ?」  怒りと欲望にひずみ、うなるような声が海人から洩《も》れた。 「身体《からだ》中だよ、外も、内もだ、あいつ、めちゃくちゃしやがって……」  みなまで言わないうちに、クリスは腕を取られ、捻《ひね》られると、海人の脱いだタンクトップで後ろ手に縛りあげられてしまった。 「な…んで、縛るんだよッ……」  クリスの叫びは海人には通じなかった。  さらに海人は、背後から首筋に腕を回し、クリスの白い喉を思いきり仰《の》け反らせたのだ。  息が詰まる苦しさにクリスは口唇をひらいて喘《あえ》いでいたが、海人は力をゆるめず、背後を取った姿勢のまま、今度はクリスを俯《うつぶ》せに押さえ込んでいた。  肩と頭をシーツに押しつけ、いっそうのし掛かる。  かなり苦しいはずで、クリスは呻《うめ》いた。  鞭痕の残る身体は、海人が覆い被《かぶ》さったことで、火傷《やけど》したような痛みをクリスに与えているだろう。後ろ手に縛られ、さらに喉元を絞めあげられて息が詰まりかけ、クリスから力が抜けていくのが判った。  秋生の戸惑いを感じたのか、海人が顔をあげ、脅し口調で言った。 「おい、卵の礼だ。見て行けよ、いいな、そこにいろッ」  言うなり、海人は、後ろからクリスの両足をはらって広げさせると、間に自分の下肢を進め、鞭痕が残る双丘の一方を掴んでひらいた。 「やめろ…って! 海人、バカッ、やめろッ!」  逃げだそうとクリスはもがいていたが、圧倒的な力によって支配され、受け入れさせられていった。 「アアッ!」  鋼のような海人が出現し、クリスの白い谷間に突き刺さり、消えたのを秋生は見た。 「ううっ、うー…っ……」  クリスが呻きを洩らしている。 「どうせ仙北谷に色んなもの突っ込まれたんだろう? 今さら痛いってわけじゃないよな」  完全にクリスの内に入ってしまってから、海人は首筋を押さえていた方の手を放し、そう言った。 「くそっ…憶《おぼ》えてろ、海…人……っ」  悪態を吐《つ》いたクリスだが、ベッドに突っ伏したまま、のし掛かってくる海人の抽送を受け入れるしかなかった。 「お前こそ、憶えてろよ、俺はあんな奴《やつ》とは違うってことをな」  海人は、クリスの双丘に指をかけて左右に開き、自分を納めた環《アナル》を見ながら、ゆっくりと動きはじめた。 「ああっ…う——…」  立っている秋生の位置から、かすかに、妖《あや》しいコーラルピンクの環が見える。  海人が抽送を繰り返すたびに、クリスの腰のあたりが、痙攣《けいれん》というには激しく、ブルッ、ブルッと慄《ふる》えた。 「膝《ひざ》を立てろよ」  腰を使いながらクリスの身体を撫《な》でさすっていた海人が、突然、両膝を立て、下肢を突き出す形に持ちあげろと言いだした。  後ろ手に縛られているクリスにすれば、自分の身体を頭で支えなければならなくなり、さらに苦しい姿勢になる。抵抗して頭が振られた。 「手、解けよ。ほどけば、お前の言うとおりにするッ」  クリスが反発した。 「ダメだ」  払いのけるように拒絶して、海人は自分の手でクリスの腰を掴むと、具合がよくなる位置にまで持ちあげ、膝を立てさせた。  クリスは抵抗するが、入り込んだ海人の怒張が腰を落とすことを許さないので、結局は望みどおりに下肢を捧《ささ》げる格好にされてしまった。  屈辱的で、淫《みだ》らなポーズだった。  より攻撃が加えやすい形にさせてしまった海人が、あらたなリズムでクリスを犯しはじめた。 「アッ! アウッ! アッ!」  一突きごとにクリスが声を洩らす。  すると海人は、往復運動だけでなく、自由自在に責め立てるようになった。  挿入し、抜き出し、深く、浅く、揺すぶりながら円を描き、強弱をつけた抽送を繰りかえすのだ。  明らかに苦痛を感じている様子なのに、クリスの生理的反応は違ってきていた。  苦しいほどの充溢《じゆういつ》感の後にくる、あの、力を奪われていく切ない感覚が、海人の抽送によってクリスの内部では起こっているのだ。  海人が突き出させたクリスの腰下へ手を入れ、反応している前方を片手に掴んだのが見えた。 「あう…ッ…」  呻いてばかりだったクリスの声音に、艶《なま》めいたものが混じったが、直《す》ぐに、ヒッとひき攣《つ》った。  褐色の手が、クリスの付け根を握っていた。  男の快感を封じながら、海人は背後からの抽送を再開した。  速く、ゆるく、激しく、よじっている。  ハァ…と喘ぎが洩れると同時に、クリスの身体がのたうち、海人を咥《くわ》えた腰から足先までが、痙攣しはじめた。 「あ、あううッ……」  背後から突き入れる海人の動きが、速くなった。  抽送の幅が短くなり、対して激しさを増しながら、追いあげにかかっている。  海人に組み敷かれたクリスの白い身体には、慄えじみた痙攣が起こり、全身が狂乱的な身悶《みもだ》えを起こしているのだ。  身悶えるクリスの喉からは、最初は呻きだったものが喘ぎに変わり、次第に高い音色を帯び、高まった歓《よろこ》びの声となって流れだした。  女の声でも、男の声でもない、官能的な声は、心をくすぐるような、かぼそい顫《ふる》え声となって、秋生の耳からばかりでなく、皮膚を通して身体にも侵入してきた。  一瞬で、秋生は身体の奥が燃えあがり、自分が炎に変わったのを知った。  灼熱《しやくねつ》の炎になり、クリスを焼き尽くしたいような気分だった。  だがクリスは、海人と獣のように番《つが》い、互いを饕《むさぼ》り喰《く》いあっている。  二人はほとんど同時に絶頂へと昇りつめ、秋生の前で、達した。  海人が、金砂色をした髪を掴んで引っぱると、ベッドに押しつけられていたクリスの頭が仰《の》け反り、二人の口唇が重なった。  ゆっくりと絶頂の余韻が解けていくのを、口唇を合わせながら二人は愉《たの》しんでいるように見える。  秋生だけが取り残され、火を点《つ》けられた欲望が解消されていないもどかしさを感じていた。  欲望を遂げた海人はクリスから離れると、彼の身体をベットに突き放して立ちあがった。 「秋生、朝飯に行くぜ」  そう言われて、秋生は薪拾いをさぼったことを思いだした。 「解《ほど》けよ、行くなら、解いて行け」  縛られたまま残されると判って、クリスは怒ったが、海人は笑っただけだった。 「海人ッ」  無理|遣《や》り部屋から連れ出された秋生の方は、どうするべきなのかに戸惑った。  クリスの所に戻り、腕を縛っている海人のタンクトップを解いてやるべきか……、それとも、朝食に遅れないようにホールへ行くべきか、食事はやめて薪拾いに行くべきなのか。  だが、秋生は、海人を前にして聞き出すタイミングは逃さなかった。 「今でもあんたは、クリスを殺したいのか?」  着替えるために自分の部屋に入ろうとしていた海人が、振り返った。 「お前は、あいつをただ綺麗《きれい》な顔の淫売《いんばい》だと思ってるのか? いいか、あいつには油断するなよ。あいつは、人を殺すのなんか何とも思っていない。料理するみたいに殺せる奴なんだぜ」  信じがたく、どう答えてよいのか秋生が黙っていると、海人が口許《くちもと》にせせら笑いを浮かべながら言葉を継いだ。 「けどな、そんなあいつを、俺は素手で殺せる。殴り殺せるんだぜ。あの時も、クリスを殺すことができたが、その時、俺は判ったんだ。殺したら、もっと後悔するってな」 「あんたは、クリスのことが好きなのか?」  秋生は苛立《いらだ》ちを感じていた。この苛立ちがどうして起きるのか、どこから来るのか、判っていたが、認めたくなく、心の裡《なか》で抵抗した。 「好きだぜ。憎くて憎くて、殺してやりたいほど、好きだ」  今にも舌なめずりしそうな虎の顔だった。  海人が自分の部屋に入り、ドアが閉まるのを確かめてから、秋生はクリスの許《もと》へと戻った。  次に自分がしなければならないのは、クリスを解放してやることなのだと思ったのだ。  それも、海人のクリスに対する気持ちを知ってしまったからであり、彼に対するささやかな当てつけだった。  食事の後に海人が戻ってきても、もう縛られていないクリスは思い通りにはならないだろう。そうさせてやりたかったのだ。  クリスは、戻ってきた秋生に腕を解かれ、両手が自由になっても、ベッドから起きあがる気力も体力もないといった風に横たわっていた。 「お前なら戻ってきてくれると思ったよ」  声が、少しかすれている。  その上に、激しく擦れあったせいで、クリスの背につけられた鞭傷《むちきず》からは血がにじみ出している。 「なんで海人を怒らせること言うんだよ」  呆《あき》れたように秋生は言った。 「なんでって、怒らせた奴とセックスする方が感じるからだよ」  信じられないような答えがクリスから返ってきて、また秋生は呆れた。 「殺されるとかって考えないのか?」 「海人は、所長《パパ》と寝てきた俺を怒ってるのさ、嫉妬《しつと》してんだな。けど、島にいる間はしかたないと思ってる。判るか? 頭で理解してても、心は納得できてない。だから、怒りを発散させてやったんだよ。ちょうど、お前っていう刺激剤もあったからな」 「あんたらは、相思相愛だったって訳かよ」  秋生は皮肉を言ってみたが、クリスはまだ欲情の色が褪《さ》めない紅い口唇をうっすらと持ちあげ、 「そんなわけないだろ」と笑った。  第四章 乱 舞  七月に入ってから数日後、牛を移動させて戻ってきた秋生《あきお》たち三人に、管理棟からの呼出しがあった。 「夕食に招待するだぁ? くそ気色悪《わ》りいな」  俊輔《しゆんすけ》が警戒心をむき出しにしたのに対し、関係ない立場にいるヒロは飄々《ひようひよう》として言った。 「そろそろ二ヵ月だろ? 様子を聞きたいんだな。宿舎の中の事とか、他の連中のこととか、新入りは結構情報をばらすからな」 「んなマネするわけねぇだろ」 「そんな気なくてもやばい情報洩《ことも》らしてる時もあるんだよ。だから、自分の話だけにして、他人については喋《しやべ》んなよ」  ヒロは視線をあげ、海と空の境目のあたりをじっと見つめていたかと思うと、眉根《まゆね》を寄せた。 「今夜あたり雨が降るな、ほら、海と空の境目あたりの色が変だろう。荒れてくるよ」 「嘘《うそ》つけぇ」  俊輔はヒロを嘲《あざけ》った。だが当のヒロは少しも気にしていない様子で、付け加えた。 「風呂場《ふろば》に行って身体《からだ》を洗って、服を着替えていくんだな。夕食に呼ばれたらちゃんとした格好でないとな」  言われた三人は水風呂で身体を洗い、新しいシャツと、作業着ではないズボンを穿《は》き、指定された時間に間に合うように宿舎を出た。  管理棟へ向かう坂道を歩いていると、なま暖かい風が松林の方から吹いてきた。  確かに、今夜は荒れそうな気がしたが、島では、静かな夜など一夜もないのだ。波の音に風の音が加わるだけだ。あるいは、雨の音。  秋生は、宿舎を振り返ってクリスの部屋の窓を見たが、今日は閉まっていた。  海鳥の卵を届けた朝から十日以上が経っているが、クリスと海人《かいと》の間にある特殊な絆《きずな》を知ってしまった秋生は、以来、意図的に二人を避けてきた。  自分の入り込める余地がないのに気がついたからだ。  それなのに、一度クリスとは肉体の関係を持ってしまっている。  秋生の道徳観念では、それは疚《やま》しいことなのだ。  もっとも、意図的に避ける必要もなかった。クリスはいつも海人と一緒で、新入りの秋生は雑用をこなすのにほとんど一日中動き回っていたのだから、すれ違う程度の接点しかなかったのだ。  仕事のある昼間はもちろんのこと、秋生は二度と深夜に浴室へは行かなかったので、二人きりで出会うという切っ掛けもなかった。  クリスの窓が閉まっているのは、まだハウスで仕事中なのだと思うが、少しばかり、気落ちした。  管理棟では、井藤《いとう》と大木《おおき》が三人を待っていた。 「掃除をしてもらおうか」  いきなりそう言い出した二人は、秋生たちに管理棟の一階全部と、職員の部屋が並ぶ二階の廊下を掃除させた。  通信室、倉庫、厨房、娯楽室を兼ねた食堂、職員用の浴室、相談室と独房のある一階が済むと、今度は犬舎へ連れて行かれた。  佐古田《さこた》が犬を押さえている間に犬舎を掃除したが、途中から、ヒロの予言通りに雨が降り出した。  普通の雨ではなかった。風をともなった横殴りの雨で、せっかく着替えてきた新しいシャツもズボンも台無しになってしまった。 「くそっ、犬の方がいい暮らししてやがるぜ」  終わった後、相談室で三人きりになった途端に、俊輔が毒づいた。広い運動場を持った犬舎に放たれている犬たちの方が、島の少年の誰よりも自由で、幸せそうに見えるのだ。  けれども、同じく島に閉じこめられているのには変わりがない。  そこに、所長と、段ボール箱を抱えた井藤が入ってきた。 「面談を行うが、その前に、どれでも好きなものを一枚ずつ選んで、シャワーを浴びてきなさい」  大仰に所長が言い、にやけた赤ら顔の井藤が、箱を開いて中身を見せた。  箱の中には、様々な色柄のアロハシャツやジーンズ、下着類が入っていた。  思いがけない下賜物だった。秋生は、青い極楽鳥の描かれたシャツと、サイズが合う黒のジーンズや下着を選び、俊輔は派手な赤系のアロハにルーズ・シルエットのジーンズ、由樹也《ゆきや》も気に入ったシャツとジーンズなどを取った。  それから、身体を洗うために独房の洗い場へと向かったが、秋生は呼び止められ、まず一番に面談となった。  コンクリートの床に正座させられた秋生は、担当する仕事はなにか、慣れたか、宿舎では誰と一番仲がよいか、逆に仲が悪いのは誰か、困ったことはないか、トラブルは起きなかったか、それと、水死体を片づけた時の気持ちを訊《き》かれた。  誰とも特に仲は良くも悪くもないと答え、トラブルはなく、水死体を片づけたのは、一生に残るいい思い出になったと秋生は答えた。  秋生の皮肉に対しても所長は頷《うなず》いただけで、由樹也に替われと言われた。 「なに訊かれたんだよ」  洗い場で待ちかまえていた俊輔が、すかさず訊いてきた。 「仕事や、人間関係だ。大したことはない。黙ってればいいのさ」  秋生は答えると、急いで全裸になり、シャワーのコックをひねった。  ひねると熱い湯が出た。宿舎にはシャワーがなく、ましてや湯は出ないので、この独房の方が待遇がよさそうだった。  熱い湯を頭から浴びた秋生は、備えつけの石鹸《せつけん》を使って全身を素早く洗い、もう一度、今度はゆっくりと時間を掛けて念入りに洗った。  シャワーの飛沫《しぶき》が届かない位置で着替えた俊輔は、自分が呼ばれるのを待っている。  突然、由樹也の叫び声が聞こえた。  叫び声、悲鳴、激しい泣き声が聞こえたのだ。  驚いた秋生がシャワーを止めた時には、もう、何も聞こえなくなっていた。空耳でなかった証拠に、俊輔も息を殺し、ドアを透視せんばかりに睨《にら》んでいる。  秋生が服を着替え終わる頃には、俊輔が呼ばれた。  十五分ほど後、ふたたび秋生も呼ばれ、今度は食堂へ行くように言われた。  由樹也も一緒だったが、先ほどの悲鳴や叫び声が嘘だったかのように、おとなしかった。  三人が職員用の食堂に入ると、細長いテーブルには、クリスと、直之が座っていた。  白いハイネックのニットシャツを着たクリスは、おとなしく座っていると女と見分けがつかないほどだったが、彼は、秋生たちを横目に見て、なぜか不機嫌そうに眼を逸《そ》らした。  もう一人の直之《なおゆき》は、秋生たちが着ているアロハシャツに対し、露骨に羨望《せんぼう》の目を向け、役得にありついた新入りを睨んだ。  夕食は、職員五人と、便宜《べんぎ》上彼らが名付けた「生徒」たち五人で向かい合ってテーブルに着き、料理人である西村は給仕に徹した。  メニューのメインはビーフステーキだったが、ワインが供され、五人の少年たちにも振る舞われた。  秋生は、クリスがいる理由と、直之がいる理由を考え、最悪の事態を思い浮かべてしまったので、食欲がなかった。  この食事の後に待っているのは、おそらくは、性への奉仕なのだ。  思った通りだった。  クリスは早々に所長と消え、由樹也は鳩屋《はとや》が選び、俊輔は井藤、直之は大木、秋生は佐古田に掴《つか》まり、彼の部屋へと連れて行かれた。  佐古田の部屋は、ビジネスホテルの一室といった感じの、殺風景なものだった。  ベッドと、壁には作りつけの洋服|箪笥《だんす》、タバコやシガレットパイプの置き場でしかない窓際の書き物用の机、推理小説の並んだ本棚。武器になりそうなものはなにひとつ、表面上には見当たらなかった。  秋生は、佐古田と二人きりだというだけで思い出されてくる最初の屈辱を、なんとか心から締め出そうとして、気を紛らわせるためにも、本棚を見ていた。  並んだ本のタイトルを見ている秋生に、佐古田が声を掛けてきた。 「本が好きか? 読みたいのがあったら持っていってもいいぞ」  秋生は息を呑《の》んだ。おそらく、それは破格のご褒美なのだろう。本を貰《もら》うためには、これから起こることに精一杯に尽くさなければならないのだ。  そして、佐古田は性急だった。 「時間がない。裸になれ」  覚悟していた秋生は、要求に従って全裸になったが、言ってみた。 「俺《おれ》……あの時、はじめてだったんです」  佐古田の厳《いか》めしい表情が、にやりと歪《ゆが》んだ。 「判ったよ、オイルはあるんだぜ。たっぷり塗ってやる。まあ、その前に、俺をマッサージしてくれ。いいか? 変な気を起こすなよ」  佐古田はそう言うと自分も全裸になり、シーツを敷いたベッドに横たわった。  秋生は眼を閉じ、深く息を吸い込んだ。  眼を閉じると、窓の外の嵐《あらし》がはっきりと感じられた。  秋生の心の裡《なか》も嵐が起こっていたが、眼を開けた時には、覚悟は出来ていた。  そこで秋生は、手渡されたオイルを使って、独自の運動で鍛えたものと思われる佐古田の肉体をマッサージしはじめた。  中学時代に陸上選手だった秋生には、マッサージのツボが判っている。巧みな指圧に、佐古田は呻《うめ》き、ため息を洩《も》らし、時に低く喉《のど》を鳴らすようになった。  筋肉がほぐれていくのを味わいながら、満足しているのだ。  さらには、背中がオイルでギトギトになっているのも構わずに、佐古田は仰向《あおむ》けになり、マッサージの続きを要求した。  腹につかんばかりに勃《た》ちあがった佐古田の下半身が、秋生の眼に入った。それは、太いというよりは長く、茎《シヤフト》を這《は》う血管が生々しかった。 「上に乗れよ」  催促された秋生は、佐古田の身体に跨《またが》ると、首筋から順にオイルを垂らし、マッサージを再開した。  首筋から肩口へと筋肉を確かめながら指圧していく。 「最初の晩、宿舎で喧嘩《けんか》したそうだな?」  突然、二ヵ月も前の事件を佐古田が持ち出した。先ほど所長からも訊かれなかったことだったが、誰かが、密告したのだ。 「答えろ、なんで暴れた?」  佐古田の顔を見ながら、秋生は訊き返した。 「答えたらどうなるんですか?」 「どうもならんさ、俺が黙ってる限り、お前は罰せられない」  秋生の裡にむらむらと反抗心がわいてきた。  この男は自分に恩を着せようとしている。気に入るようにすれば、本をくれるとも言う。そうやって、自分を支配しようとしている。けれども、ヒロが言うとおり、管理棟の誰かのお気に入りになれば、楽が出来ることも確かだった。  その点で、佐古田は秋生に目をつけている様子だ。  だが、秋生は思いきれなかった。 「あん時は、なにか芸をしろと言われたから、俺に出来るのは喧嘩だけだって、やってみせただけです」  口にしてみて、それはすべて本当のことだったので、秋生は後ろ暗さを感じなかった。 「小狡《こずる》く頭も働くみたいだな、ま、いいさ、お前はそのお陰で助かってる」 「なにが助かってるんですか?」  頬傷《ほおきず》の男は、質問してくるなど信じられないといった表情になり、秋生を睨みつけたが、すぐに、口許《くちもと》を歪めて笑った。 「つまりだ、俺以外にお前を使おうって気の奴《やつ》がいなくなったということだ。キレるやつに、大事なモノを銜《くわ》えさせる訳にはいかんだろうが?」  お前を使うという物言いが、すでに性欲処理の道具としてしか秋生を見ていない証《あかし》だ。そんなことは判っていても、いざ、言葉になって耳に聞こえてくると、その侮辱は耐えがたいものがある。  しかし、島では耐えなければならないものも多く、その一つに加えられただけで、何時《いつ》しか今感じた屈辱にも鈍化していくのかも知れなかった。  それに、キレるというならば、俊輔の方が危ないだろう。俊輔を連れて行ったのは井藤だが、あの男ならば、手応《てごた》えのある相手が好きかも知れない…。 「俺も、相手を誰かと共有するのは好きじゃない。ちょうど良かったな」  佐古田はそう言ったが、秋生は、彼がクリスとは関係していることを知っている。おそらく、職員の全員がクリスとは関係があるのだろう。彼だけは特別なのだと言われても、納得は出来た。  マッサージは、ついにその部分だけが残った。  秋生は佐古田の股間《こかん》に触れ、いきり勃った肉茎《ペニス》を両手に包み、下から扱《しご》きはじめた。  扱いていくと、先端から透明な粘液が球のようにあふれ出す。今にも噴き出し、到達してしまうのではないかと、秋生は慎重になった。  一度行かせてしまうと、次に自分の身に受けた時に長く苦しまなければならない。男であるから、判っていた。  佐古田が、マットレスの下からコンドームを取りだし、装着するように言った。  前には使用しなかったが、島で二ヵ月暮らした後の秋生に対しては病気を心配したのかも知れなかった。  宿舎で、性欲の塊である年頃の少年たちが、男同士の交歓に勤《いそ》しんでいるとでも思っているのかも知れない。 「乗れ」  言われて、秋生は心を決めた。  オイルで潤っている先端《グランス》に、秋生は腰をすえると、口唇を開き、息を吐き出しながら受け入れた。  身体《からだ》が受けた激痛は、瞼《まぶた》の裏に火花となって顕《あらわ》れたが、予《あらかじ》め覚悟が出来ていたのと、潤滑油の効果で、——あるいは三度目ということもあったのか、思ったほどの痛手を被《こうむ》った訳ではなかった。  快楽のひとかけらもないが、佐古田のすべてを受け入れた時、秋生の前方は変化していた。 「腰を使え」  下から聞こえた佐古田の声は、感じている快感によって掠《かす》れている。  秋生は、マグロ状態に寝そべっただけの男を満足させるために、自分から懸命に、積極的に、腰を使った。 「おおう——」  呻いた佐古田が、いきなり秋生の腰を両脇《わき》から掴《つか》んで、さらなる動きを要求しだした。  秋生の往復運動に、下から佐古田の突きあげが加わり、交合した二人の肉体が燃えあがった。  瞬く間に佐古田は到達したが、秋生の口唇から洩れ続けたのは、苦痛の悲鳴と呻きの中間にあるような、くぐもった声だった。  佐古田がコンドームを始末している間に、秋生は二階廊下の洗面所へ行き、身体についたオイルを拭《ふ》き取った。それから洗面器に湯を入れて戻り、佐古田の身体も拭き清めた。  ベッドのシーツ交換までさせられたが、佐古田は、オイルで汚れたシーツを秋生にくれると言い、さらに、 「廊下の突き当たりが所長の部屋だ。次はそこへ行け」そう言ったのだ。  所長の相手をしろということだった。  今夜は、順に職員の間を回されるのだ。その為に、佐古田はコンドームを使用したのだと判った。 「俺を、誰かと共有するのは嫌だったんじゃないんですか?」  佐古田が、口許を皮肉に歪めた。 「なあ、俺だって、所長の頼みなら断れない。お前も、そうだと思うぜ。それに、聞いたぜ、クリスと仲が悪いそうだな」  どういうことなのか判らずに言葉を失った秋生を、佐古田は勝手に解釈したのか、ニヤニヤと笑った。 「早く行け」  シーツを持たされ、追い払われるように部屋を出た秋生は、廊下で待っていた直之とぶつかりそうになった。  直之の背には金髪女の刺青《いれずみ》がある。背後から重なれば、その悩殺的な女とセックスしている気になれるらしいので、彼は管理棟に呼ばれているのだ。  秋生は、逃げられないと判って、突き当たりの部屋をノックした。  ガウン姿の所長がドアを開け、素早く秋生を招き入れ、鍵《かぎ》を掛けた。 「遅かったな…」  所長は、何かに怯《おび》え、顫《ふる》えているような声で言った。 「佐古田先生とは随分|愉《たの》しんだかね?」  殴りつけたい衝動を抑えて部屋の中に入った秋生は、直《す》ぐに、天井から吊《つ》られたクリスに気づき、ハッと息を呑《の》んだ。  全裸のクリスは、両手首に革の手枷《てかせ》を嵌《は》められ、梁《はり》から下がったロープに繋《つな》がれていたのだ。  爪先立《つまさきだ》ちの姿は、全身がぴんと張りつめたダンサーのように美しかったが、同時に身体中がおそろしく敏感になっているだろうことも想像できた。  夕食の席で無視したように、今もクリスは秋生を無視した。 「君たちは仲が悪いそうじゃないか」  欲望に声を顫わせながら、所長が近づいてきた。 「そんなことではいけないよ。島にいる間はみんなが家族だ。だから今夜、二人が仲良くなれるように私が手を貸してあげるよ」  所長はそう言うと、先端がバラバラになった革の鞭《むち》を持ってきて、秋生にクリスを打てと命令した。 「お前が打たなければ、俊輔を呼んできて打たせるぞ」  その言葉に秋生は逆らえなかった。俊輔にクリスを打たせるわけにはいかないのだ。 「いやだ」  だが、クリスが叫んだ。 「なんで、俺がそんな新入りにやられなきゃならないんだっ」  ナイフみたいに冷たい言葉がクリスから放たれ、秋生は胸を殴られた気分になった。  抵抗しているクリスの顎《あご》を、所長は掴んで自分の方へ向かせると、無理遣り、口唇にキスをした。 「私が見たいからだよ」  普段眠そうな眼の男が、いまは双眸《そうぼう》を輝かせている。 「いやだッ! 他のことなら何でもするから、そいつだけは嫌なんだ……」  所長から顔を背けたクリスは、威嚇する獣のように秋生の方を睨《にら》んだ。  碧《あお》い眸《ひとみ》が燃えていた。  だが、所長が見ていない隙《すき》に、クリスは素早く、意味のあるウィンクを秋生に投げかけた。  クリスは、人の心、——欲望を読むことが出来るのだ。  その人間が必要としている満足を得るための儀式のやり方を知っていて、与えてやることが出来るのだ。  秋生は、自分とクリスの仲が悪いということになった理由を理解した。  クリスのウィンクには、これから、二人で愉しもうという暗黙のメッセージが入っていたのだ。  仙北谷《せんぼくや》は、この小さな、不毛で、邪悪な島に閉じこめられ、タイガーストライプの迷彩服を着た職員を家臣に、更生不可能と判断されて送り込まれた少年たちを奴隷として、独りだけの王国を築いている。  奴隷の一人となった秋生は、全裸になれと命じられ、さらに渡された鞭で、クリスの背を打った。 「アアッ!」  クリスが叫びをあげ、身体を捩《よじ》らせて逃げた。  秋生の振り下ろす鞭が当たるたびに、クリスはハッとして身を引いた。 「パパ、そいつをやめさせてッ」 「やめなくていい、背中から尻にかけてを、もっと強く打て」  力の加減が判らない秋生の鞭は、なめらかな白い肌に、妖しい紅の筋をつけた。  それも、先のバラバラになった鞭なので、一度に何本もの痕が残り、クリスの身体は、紅い蛇に巻きつかれたように見えるのだ。 「いやッ…アウッ!」  大げさにクリスが反応する。  以前に見た時に、秋生は痛々しさの方が先に立ったが、いま、自分が付けた鞭痕を見ると、激しい興奮が熾《おこ》ってきた。 「さあ、どうした。打てッ」  命じる声に、素早く反応して、秋生はクリスを打った。 「クッ!」  しっとりと汗ばんだクリスの身体に触れた鞭は、官能的な打擲音《ちようちやくおん》を立て、紅い蛇の痕を残していくが、巧みに避けられてしまい、風の切れる音だけで終わることもある。  鞭が躱《か》わされるたびに、秋生はムキになった。  だが、ムキになって振るえば振るうほど、ことごとくクリスに躱わされてしまうのだ。  秋生の裡に嵐が起こっていると同時に、窓の外にも台風が迫っていた。  嵐の予告となった雨はいっそう激しくなり、風が強くなっていたのだが、部屋の三人には気づく余裕はなかった。 「何をしとるッ、しっかり打たんかッ! いや、待て…」  業を煮やした仙北谷は怒鳴りだしたが、思いつくことがあったのか、秋生に待てと命じ、壁のキャビネットを開けた。  取り出されたのは革製の包装具《サツク》で、どうやって使うのかを説明する代わりに、仙北谷は着ているガウンの前をはだけ、自分の股間を秋生に見せた。  昂《たかぶ》りきった男の性感帯《ペニス》が同じ包装具《サツク》に包まれ、スニーカーの紐を通すような編み込み方で、きつく締めあげられているのが判った。  その拷問具を仙北谷はクリスにも装着させようと言うのだ。 「いやだッ」  またもクリスが拒絶を放った。 「そんなものを付けないでッ、打っていいから、鞭で打ってもいいからッ、それは嫌ッ」 「秋生、後ろからクリスの両足を持って抱えあげろ」 「ああ…、駄目……っ」  頭を振って拒絶を表すクリスを、秋生は背後から抱え、両足をひらいて持ちあげてしまう。すかさず、仙北谷がクリスの前方に革帯を巻きつけ、自在に調節できる紐を締めあげた。  クリスが身体を顫《ふる》わせている。 「あれも嫌だ、これも嫌だとばかり、わがままな子にもっとお仕置きが必要だな」  次に仙北谷が取りだしたのは、グロテスクな形のディルドウだった。 「いやっ、いやあ!」  悲鳴をあげたクリスの口唇に、仙北谷はディルドウを押しあてて、無理遣りに含ませた。  口腔を塞がれたクリスが、苦しげに呻くのも構わず、突然、仙北谷がディルドウのスイッチを入れた。 「ウウッ!…ン…グ……」  激しく前後左右に動きはじめたディルドウに、クリスが息を詰まらせ、ガクガクと慄《ふる》えだした。 「しっかり押さえてろよ」  仙北谷はスイッチを切ってひき抜くと、秋生に命じた。 「パパ…やめて……」  ふたたびクリスの前にしゃがみ込んだ仙北谷が、ディルドウの先端をクリスに押しあてた。  挿入した瞬間は、秋生にも感じられた。 「ああ……いやっ…ああ……っ…」  クリスは身体を硬直させ、上体を秋生に凭《もた》れかけたまま、頭を振った。 「いやっ…パパ…いやあっ…あ、ああっ、あう——…」  挿入されてくるディルドウの威力に、クリスの腰がビクッ、ビクッと慄えている。 「ひいっ!……」  ひときわ甲高くクリスが呻いたと同時に、くぐもった電動音が彼の内から響いてきた。 「放していいぞ、秋生。もう一度、鞭打ちをはじめるんだ」  クリスは、爪先立った切ない姿で吊られているばかりでなく、激しく動くディルドウを咥《くわ》えさせられ、前方を締めつけられた上に、鞭で打たれるのだ。 「早くせんか、この者は、王である私にも同じ仕打ちをしたのだぞ。打て、早く、打てッ」  ディルドウの激しいうねりとくねりに、吊られたクリスの身体は悶《もだ》え、踊っているようにも見える。 「ああっ!」  秋生は、振りあげた鞭で、呻き淫《みだ》らな舞踏を続けるクリスを打った。 「…許して……もう、打たせないで…」  鞭打ちは、自分が支配者であるという立場を確認させてくれる。 「…パ…パ…、そいつを止めて……アウッ、アアッ」  切迫した息づかいでクリスは苦悶《くもん》を訴えている。  だが、逃げようと動かされる身体は、体内の異物が邪魔をして、もう先ほどのように巧みに躱わすことができないのだ。 「うぐッ」  弱っていく獲物を見るようで、いっそう責める者の官能が呼び起こされる。  秋生は、自分の一打がクリスにもたらす苦痛を、いつしか、自分の苦痛として感じていた。 「くう……」  クリスと一緒に、打たれる痛みに呻《うめ》き、間合いに安堵《あんど》する。すると、鞭を振り下ろす瞬間に、スウッと身体から魂が抜け出るような快感が起こってきた。 「いいぞ、秋生、いいスイングだ。お前は才能がある、いいぞ…」  クリスに惑溺《わくでき》する所長は、寵愛の小姓が下位の奴隷に鞭打たれ、許しを請うのを愉しんでいる。  秋生もまた、治りかけだったクリスに対する想いが、口を開いた傷口のように疼《うず》きだした。  自分の裡《なか》に潜んでいた激しい感情に、秋生自身が驚くほどだ。 「よーし、もういいだろう。次はクリスを犯せ」 「これ以上はイヤだッ!」  咄嗟《とつさ》にクリスは身体をよじって秋生を睨《にら》みつけた。  怒りのあまりにか、歪《ゆが》んで片方がつりあがった口唇から噛みしめている白い歯が見えるほどだった。  どこまでが本当で、どこまでが芝居なのか判らなくなってくる。 「ディルドウを抜いて、お前のものをぶち込んでやれ、散々にかき回して、クリスに鳴《な》きを入れさせろ」  欲望に浮かされた仙北谷の声が、秋生を戸惑いの崖《がけ》から一気に飛び立たせた。  身悶《みもだ》えるクリスの背後から、秋生は下肢を押さえ、鞭の赤い痕の残る双丘を、掴《つか》んで広げた。蛇に犯されていない、青白い谷間の奥に、ディルドウの一部が尾のように覗《のぞ》いていた。  手を掛けて、秋生は一気にひき抜き、ディルドウが、動き回る生き物となってかき乱していたクリスの内に、自分の隆起を押しあてる。 「いや……」  クリスは抗って激しく悶えたが、ディルドウで広げられていたせいで、秋生の先端は楽に入った。  だが、クリスが爪先立ち、ぴんと張りつめさせていた下肢をいっそう持ちあげたので、先端を埋めただけの秋生は、簡単に外れてしまった。  クリスの拒絶を感じた秋生は、もう躊躇《ちゆうちよ》することなく強引になり、両脇から掴んでひろげた狭間に押し込んだ。  グランスが突き抜けるまでには抵抗があり、けれども括《くび》れまで入ってしまうと、あとは、なめらかに埋まった。 「う……う……う……ぅ……」  クリスの内が、入り込んだ異物に戦《おのの》き、痙攣《けいれん》と収縮を起こして抗議を申したてるが、それこそが犯す者を歓ばせる刺激だった。  秋生は抵抗を愉しみながら、ゆっくりと沈めていった。  入口の強情さに比べて、クリスの内は熱く、欲望の炎に燃えているかのようだ。  腰に手を添えて、最後まで押し込んでしまうと、秋生は締めつけられ、爆発しそうになった。それを怺《こら》えて、動かす。  たちまち、素晴らしい快感が秋生を襲い、正気を失わせた。  佐古田との接触で満たされなかった秋生は、クリスに掛かってはひとたまりもなかったのだ。 「う…んっ、んっ、あああぁぁっ! はぁぅっ!」  クリスが呻きをあげた。  なにが起こったのかを察した仙北谷が、クリスの背後から繋がった秋生の背を、鞭で打った。ビリビリッと、打たれたところから電流が走り抜けたように、秋生は硬直した。 「バカ者め、貴様がそんなに早く達《い》ってどうする、これからクリスを攻めねばならんのに」  クリスから離れさせられた秋生は、もう一打、胸元を仙北谷に打たれ、罵《ののし》られた。 「直ぐに勃《た》たせろ、それくらい、若いなら何でもないだろう、さあやれ、手で出来るだろうが」  仙北谷が急きたててくる。言われて立ちつくす秋生を、クリスが半開きの眼で凝視《みつ》めた。  クリスの青ざめた白い肌の奥から、欲望の焔《ほのお》が透過《とうか》してみえる。  秋生の裡に、ふたたび欲望の焔が熾ってきた。  仙北谷の目が輝いた。 「復活したか、そうか、若いな、おお……凄《すご》いぞ、お前は凄いな、ようし、今から私の親衛隊長に任命してやる」  言うなり、仙北谷がガウンを脱ぎ落とし、肥った裸体を晒《さら》した。 「褒美を取らせるぞ」  両胸の乳首には、ピアスが嵌められ、下肢は革製の拘束具で締めつけてある。さらには、自分で股間へと腕を入れ、仙北谷は、挿入していた電動のディルドウをひき抜いた。  ゴトンと床に投げ出された淫具が、生きている虫のようにうねくり、移動していく。 「褒美だ、親衛隊長。私の身体をお前にくれてやる」  醜悪な肉の塊を踊り子のように振って、仙北谷が恐ろしいことを言った。 「王の肉体を存分に味わわせてやるぞ、私は、この不埒《ふらち》な小姓を仕置きせねばならんがな」  股間の革拘束具を外し、巨大な肉塊をあらわにした仙北谷は、ロープをギシギシと鳴らして逃げようとするクリスの前に立つと、両足を下からすくい取って、抱きかかえた。 「いや、いやあ…」  頭をふり、金砂色の髪を乱すクリスの上体を屈するほど折り曲げ、仙北谷は目的を見ている。  ディルドウで広げられ、秋生に犯されたクリスは、注がれた悦楽の証に濡れ、蹂躙《じゆうりん》されたことで、赤みが増している。  誘っているかのような環に、仙北谷は怒張をあてがい、突き入れた。 「あうっ!…んっ——あぁぁっ……」  クリスが仰《の》け反り、叫んだ。 「いやっ、壊れる……」  巨大すぎて一度に納まりきらない肉塊を咥えさせられ、クリスが絶え絶えに呻きを洩らしはじめた。 「親衛隊長、早く来んか、早くっ」  焦《じ》れて突き出される仙北谷の腰に、秋生はよろめくように近寄ると、女であれば肉感的と言われるのかも知れないが、醜悪な肉を分け、身体を重ねようとした。  仙北谷の肩越しにクリスを見る。  クリスの口唇がうっすらと開き、まるで、これから秋生が貫かなければならない秘部を模するように、淫らに蠢《うごめ》いた。  秋生はクリスを見つめながら、欲望が萎《な》えてしまう前に、仙北谷の内へと突き込んだ。 「おうっ、おうっ」  衝撃に呻き、仙北谷は歓喜の声をあげた。 「いいぞ、ズンときた。ああっ…いいぞ」  秋生の勢いに押されて、仙北谷の怒張もクリスを深く貫いた。 「うおお…、来る、くるぞ、でかいな、ははぁ、クリスが嫌がるはずだ」  前後の快感に仙北谷は我を忘れた声を立てる。 「やれ、動かせ。動かせ、秋生。すぐ出すんじゃないぞ」  言われるまでもなく、秋生の身体は動いていた。  そうして、秋生の動きは、そのまま仙北谷という肉を介して、クリスへ伝わっていく。  欲望の熱気が、三人から放たれて、部屋の中の温度があがった。  凄まじい快楽に耽《ふけ》る仙北谷が、まっ先に呻いた。 「だせ、熱い迸《ほとばし》りをだせ」  秋生は懸命に自分をフィニッシュへ導いた。  同時に、仙北谷も弾けた。  クリスの胸元に顔を埋めた仙北谷は、すすり泣くような呻きを洩らしながら、多量の欲望を搾りだしている。  体内に充満してくる男たちの欲望の証が、クリスを苦しめるのか、綺麗な貌《かお》の片眉がつりあがり、わずかに口唇の端が歪んでいた。  我慢できずに秋生は、クリスの身体に触れ、首筋に口唇を押しつけた。  内の焔が透かし見えるのに、冷たい肌からは、苦くて清涼な植物のような汗の匂いが感じられる。あたり構わずキスを降らせたい衝動を怺えるだけで、秋生自身も汗ばんだ。  仙北谷が余韻を味わいきってから、ようやく身体を放されたクリスだが、まだ吊られたままで立たされていた。  ぴんと伸びきった身体が、息を呑むほど美しい。  そのクリスを前に、仙北谷は、自分たちが注ぎこんだ多量のスペルマを指で掻《か》き出せと、秋生に命じた。 「やめろ、そんな……あ…ああ…ああッ——…」  言われたクリスの方は身をよじって抗いだしたが、思うように身体がついてこないのか、秋生の指が触れた時には、もう諦めたように眼を閉じ、ヒクヒクと顫《ふる》えるばかりとなった。  秋生は人差し指と中指を添えてクリスの内に入れると、びん底のクリームをすくう手つきで、溜まっている粘液を掻き出していく。  突然、クリスが秋生の指を締めつけてきた。 「ああ……あむ……あ——…」  クリスが感じているのに気がついた秋生が、指の刺激を密にした。  息を乱し、クリスが絶頂へと追い詰められていくのが判る。 「……あ……ぁ…は……はぁ…ぁ…う、うっ…ウウッ!」  前方を封じられている彼自身は、欲望を遂げられずにいるが、環をかき乱され、続けざまに仰け反りあがった。 「やめて……もう…しないで……っ…」  濃厚な青い臭いが立ちこめ、クリスはとり乱し、錯乱していたが、ふたたび眉根がよせられ、加えられている内奥の刺激によって絶え入るような風情になった。 「う…んん……ウッ」 「そうだ、悦《い》きまくらせてやれ」  仙北谷が煽《あお》りたてた。 「私のバスルームを使っていいから、クリスを洗ってやれ、前を外すなよ」  クリスの両手を拘束《こうそく》している革手枷《かわてかせ》は取らずに、仙北谷は身体を洗ってやれと秋生に命じた。  それから、仙北谷は、クリスの顎を掴んで仰向かせ、荒い息を継いでいる口唇を見ながら、続けた。 「鳩屋が待ってるぞ。順に回ったら、また私の所に戻ってくるんだ。いいな、全員にやられてこい、そうしたら、また私がお前の内を思いっきりかき回してやる。私が一番お前に相応《ふさわ》しいと判るまで、許さないからな」  仙北谷の部屋だけ専用のバスルームがついていた。  そのバスルームに、クリスを連れて入った秋生は、バスタブの中に立たせて、身体にシャワーをかけた。 「悪かったよ、やりすぎた……」  背中の鞭痕から、粘液のこびりついた内腿《うちもも》を洗いながら、秋生は謝ったが、当のクリスは笑って打ち消した。 「お前も愉しめただろう?」 「芝居だったのか?」 「全部本気さ、やってる時はな。けど、お前を受けさせられるとは思わなかった。あいつ、あんまり俺を他の奴らにやらせないんだけどな」  どうやら、今夜の仙北谷は違うようだ。 「それで、俺をやった感想は?」  明るく訊かれ、秋生も気分的には立ち直った。  秋生はクリスを抱き寄せると、有無を言わせず、荒々しく長いキスで口唇を塞いでしまった。そうせざるを得なかった。 「今まで知らなかったよ。こんなに…いいもんだったなんて……、ここに来てからは、やられっぱなしだったからな……」 「バカ、俺が特別なんだ」  クリスは笑い、それから、濡れた猫のように身体を振るわせて、身体中の水をはじき飛ばした。 「もう飽きたから、帰ろうぜ」  次にクリスはそう言うと、秋生を退けて、バスタブから出た。 「パパ……」  拘束された手で、バスルームのドアを開けて出ていくと、クリスは慌てた様子で続けた。 「大変だ…帰らないと……」  後を追って出た秋生の耳にも、クリスの狼狽《ろうばい》した声が聞こえた。 「外は凄い風だ。帰ってハウスを見ないと……」  この時はじめて、所長は窓の外へと意識が向き、台風の雨風が吹きつけているのを知ったようだった。  我に返った様子からも、その驚きが察せられた。 「か、帰れ、今夜はもういい、帰ってハウスの管理をしろ」  そう言った所長は、ガウンを纏《まと》って廊下に出ると、いきなり大声をあげた。 「台風が心配だ。もう奴《やつ》らを帰せ、お楽しみはまた今度だ」  廊下のどこかで、ドアの開く音がした。 「早く帰れ、お前にも、もう用はない」  着替えを持たされて廊下に出された秋生が、そこで服を着ていると、怒った顔の俊輔が近づいてきた。  後ろには由樹也もいて、彼は天井のライトを見ていた。  クリスと直之は来なかったが、ぼうっとしている由樹也を促し、三人は宿舎へ戻るために荷物をまとめると、台風の雨風が吹き荒れる屋外へ飛び出した。  吹き飛ばされそうな風と、顔に当たるたびに痛いほどの雨の中、すでに消灯時間の過ぎた宿舎へ向かうには灯台の光だけが頼りだった。だがその光も、風で大きく揺れる松並木に遮られて、歩く助けにはならないほどだ。  ざわつく松林をぬけて行く途中で、秋生が蹴躓《けつまず》き、転んだ。  ハッと振り返ったのは俊輔だったが、身に受けた屈辱に怒り続けている彼は、秋生を見捨てて行ってしまった。  由樹也の方は、秋生が転んだことにも気がついていない様子で、服を抱え、俊輔の後を追って走り出した。  転んだままの秋生は、その場から動きたくなかった。 「死んだのか?」  突然、風の音に混じって、クリスの声がした。  秋生は慌てて起きあがると、遅れてきたクリスを見た。  雨が強くなっていて、灯台の光でも相手の顔を見るのが難しくなっている。だが白いクリスの顔は、夜の海に白波が見えるように、妙にはっきりと見えた。  秋生は立ちあがり、クリスと並んで歩きはじめた。  直之の姿はない。彼はまだ、引き留められているのだろうか、それとも、とうに帰ったのか、判らなかった。 「荒れてる海って面白いな」  あと少しで宿舎に着くという所でクリスは立ち止まり、白い波が浮かびあがっては消える海の方を見て言った。 「俺《おれ》は恐いよ」  台風の風で身体のバランスを崩しそうだったが、七月の雨はそれほど冷たくなかったので、打たれていても辛くない。 「そうか? なんだか、精一杯主張してる感じがあるだろう?」 「ハウスに行かなくていいのかよ」  急いでいる様子のないクリスに秋生が心配になって訊《き》いた。 「台風でいちいち吹き飛んでるハウスなんかだったら、やってらんないだろ。けど、ハウスを持ち出せば、あいつは何でも諦《あきら》めるんだ。命の次に大切だからな」  クリスはそう言ってから、秋生を見て笑った。白い顔、紅い口唇の中に並んだ真珠のような歯が見えた。 「変態の相手ってのは、嫌悪感さえなくなれば、あんがいと楽なんだぜ、奴らの欲望は判りやすいんだ」  そうは思えなかったが、あえて秋生は反論はしなかった。 「見直したよ」 「なんだって? 風が強くて聞こえない」  クリスが、顔を近づけ、秋生の耳元で叫んだ。 「あいつ相手に、よく勃《た》ったな」 「あんたを見てたからな」  今度はクリスが訊いた。 「なに? 聞こえない」  揶揄《から》かわれているのかも知れないと思った秋生は、繰り返さずに、そのまま宿舎へ向かって走り出した。  クリスが後ろから追いかけてきた。  洗濯室で、秋生とクリスは濡《ぬ》れた服を脱いだ。  秋生は服を洗い、貰《もら》ったシーツを洗って干した。 「巧《うま》いな」 「もう二ヵ月もみんなの洗濯してるんだぜ、うまくも、手際よくもなるさ」  今夜は、クリスの衣類を洗うのも秋生の役目だった。  秋生は全裸のまま、その作業をし、クリスは洗い場の洗濯槽に腰掛けて、秋生の仕事ぶりを見ていた。 「けど、最初は驚いた。あんたと仲が悪いんだろうって言われて、鞭《むち》で打てだからな。…痛かったか?」  血が滲《にじ》んだことを思いだした秋生がそう訊くと、クリスは頷《うなず》いた。 「お前は下手だから、痛かった」  秋生自身も仙北谷に打たれたが、痛みは残っていない。 「悪い、やっぱり、下手だと痛いのか? 傷が残ったらまずいな」 「あの鞭は、もともと痕《あと》が残らないんだぜ。打たれたら赤くなるし、それなりに痛くて血も出るけど、そういう遊び用の鞭なんだ。けど、派手に痕だけつける方法があるから、今度の時のために教えてやるよ。あいつ、さっきみたいなの気に入ったみたいだからな」  悪戯《いたずら》っぽく、クリスが言った。 「俺が、逆らっても、すぐに女みたいに泣き出すと、嬉《うれ》しがるのさ」  クリスは仙北谷所長の快楽を手玉に取り、主導権を握っているのだ。 「お前、俺を避けてただろう」  いきなり、クリスが顔を近づけ、秋生を正面から見すえた。  冷たく青みがかった眸《ひとみ》、やや鋭角的だがまっすぐな鼻筋、赤みの多い口唇、あまりに綺麗《きれい》な貌《かお》をしているので、畏《こわ》くなってくるほどだ。 「そんなことないぜ」  手元に視線を落とした秋生だが、クリスの紅い口唇が残像として網膜に焼きついている。ドキドキするのを抑え、最後のシャツをしぼった。 「嘘吐《うそつ》け、食いながらだって俺を見てただろ」  以前は何時《いつ》も見ていたことを指摘されて、秋生は困ったような気持ちになったが、もう隠すのも変だった。 「海人が睨《にら》むからな」  今も、秋生は戸口が気になって仕方がない。海人が現れるのではないかと思っているのだ。 「なんだ、あの時、やらせてやらなかったから、拗《す》ねてるのかと思った」 「ばか言え」  憤慨して声が荒くなったが、誰かに、聞かれるのを恐れて、秋生は声を落とした。 「…けど、あんたと海人の関係が、いまだに理解出来ない」 「知りたいのか?」  目線をあわせると、碧《あお》い眸が、秋生をジッと凝視していた。 「知りたいよ」 「新入り病だからか?」  秋生は、知っていて言わせるクリスを睨み返した。 「本当のこと言わないと、俺も教えないぜ」 「あんたを好きだと思うから…、何でも知っておきたいのさ」  喉《のど》を鳴らして笑いながらも、クリスは秋生に答えた。 「俺たちは、お互いに相手のことしか考えてなかった時期があったのさ。海人は執念で俺を捜し出して島に来ただろう。それで俺を殺す機会をうかがってたし、あいつ、何時でも、みんなの前でも仕掛けられたのに、そんな素振りみせないんだ。俺が一人のところを狙《ねら》って、事故か何かに見せかけて殺すつもりだったみたいだな…、俺は俺で、退屈な生活の中でそんな状況を愉《たの》しんでたけど、用心はしてたんだ。絶対に、腕力や、格闘になったら敵《かな》わないからな」 「あんたを、料理するみたいに人が殺せる奴《やつ》だって、海人は言ったぜ」  海人がそこまで言ったのかと、クリスは少し驚いたように片眉《かたまゆ》をあげたが、あっさりと頷いた。 「武器を持てばな。お前くらいの奴なら素手でも殺せるけど、海人は無理だ。あいつ、強いんだぜ」  本当だろうか? 本当かも知れないと妙な確信を抱きながら、秋生も同意して頷いた。 「海人が強いのは判るよ。見ただけでも…」  その上に、まばらに顎髭《あごひげ》を生やした海人だが、髭を剃《そ》り、ぼさぼさの短髪を整え、きちんとした服装になれば、かなり見栄えのする男になるだろう。美貌《びぼう》のクリスとは、お似合いかも知れない。 「あいつ、この間は言わなかったけど、どこか地方都市の暴力団組長の愛人の子なんだ。けど家を出て、クラブで相手を殴り殺しながら大学生もやってたって奴さ、そいつが、何もかも投げ捨てて俺に復讐《ふくしゆう》するために島に来たんだぜ。呆《あき》れるよな、俺なんてそん時は男娼《ウリセン》だぜ。一晩に何人の男や女と寝ると思う? 俺は、海人の妹のことなんか、憶《おぼ》えてないんだぜ。それなのに、あいつは俺を探して、殺しに来た……」  クリスは、当時を思い起こすように、言った。 「半年位してかな、俺も海人に用心しているのが面倒になってきて、決着をつけるかって決めた時、なんだろうな、あいつの妹に対する気持ちに負けたっていうか、殺されてもいいかな…って思ったんだ。そうしたら、せっかく俺がその気になってやったのに、今度はあいつがその気をなくしちまった。バカバカしいだろう?」  クリスは笑った。  だが秋生の裡《なか》には、「あの時も、クリスを殺すことができたが、その時、俺は判ったんだ。殺したら、もっと後悔するってな」と言った海人の言葉が残っていた。 「だからだ、俺たちは、お互いしか目に入らなくて、相手のことしか考えてなかった時期があったんだ。…憎しみでも、誰かに強く想われてるって、なんとなくいい気持ちじゃないか」 「そんなものかな?」  秋生ならば緊張感に耐えられなくなりそうだ。 「お前には、親と暮らした幸せな思い出とか、好きな女とかの記憶があるけど、俺には何もないんだぜ。俺は戸籍がないんだ。父親はケチなカジノバーの経営者で、母親は不法滞在のロシア人さ、だから一度も学校へ行ったことがないし、友達もいなかったんだぜ」 「クリスって、お袋さんがつけた名前か?」 「いや、父親だよ。なんか、武器の名前なんだぜ、短剣かなにかの」 「ほらな、親って名前付ける時、意味を持たせるだろ? それはその子のこと考えてる証拠さ」  クリスは不服そうな顔だったが、反論はしなかった。  だがこの時、秋生の裡に、努めて意識にのぼらせまいとしてきた哀《かな》しみがわいてきた。  秋生は、産まれたという異父弟の名前すら、知らなかったのだ。 「…あいつ、もう、やばいな」  秋生の変化から何かを感じ取ったのか、クリスが話題を変えた。 「何だって?」 「由樹也だよ。あいつ、相当参ってるぜ、そういう奴はもう仕方ないけど、一人がおかしくなって自滅していくのを見ると、同じ時期に入ってきた奴らもガタガタになるんだ。お前も気をつけるんだな」  ヒロがアドバイスしてくれそうなことをクリスは言うと、立ちあがった。 「俺はもう寝る。洗濯したのは、部屋に干すからよこせ」  クリスは洗いあがった洗濯物を受けとる際に、さっと秋生の口唇にキスをした。 「また、やろうな…」  驚いて棒立ちになった秋生を、面白がって笑いながら、全裸のままクリスは洗濯室から出ていった。  第五章 死を運ぶ天使  台風による大きな被害はなかった。  だが、風がやんだだけで、その後は連日の雨天となった。  梅雨の時期がずれているのか、七月も半ばになってからの集中豪雨だったが、島ではこの雨がなければ、日常で使う水を確保できないのだった。  天候に左右される生活なので、雨が降ると仕事が滞った。  特に畑係は、簡単な見回りと収穫に行くだけになり、ヒロと南も、定期的に牛を見に行った後は、部屋で過ごすか、ホールにたむろしていた。  海鳥の卵も、獲れる範囲をすべて取ってしまったために、遅れてきた鳥たちが空いた巣を見つけ、そこに卵を産む第二期まで待つことになっていた。  収穫物を乾燥室に入れ、新芽を植えつけたばかりのハウス係も暇そうだった。  秋生《あきお》たちだけが、雨が降ろうとも、早朝から薪拾いをはじめ、掃除洗濯に雑用と、一日中仕事があった。  好転したこともあった。  俊輔《しゆんすけ》は、海鳥の卵を毎日のように玄蔵《げんぞう》に貢いで人間|椅子《いす》を許され、秋生も『お話係』から解任された。  ただ、由樹也《ゆきや》の方は、言動や行動が異常になってきた所為《せい》で奉仕を免除されたのだが、島に来て三ヵ月目に入り、新入りは来た時よりも待遇がましになった。  とにかく、現在では、与えられた一日の仕事量を別にすれば、表面上は先住者と対等に扱われるようになったのだ。  管理棟から不定期に届けられる、様々な種類のシャツやズボン、下着といった衣類、タオルやアクセサリーなどの雑貨、日用品などを受けとる時でも、新入りだからという戸惑いや、遠慮の必要はなくなった。  支給品は、どれも流行後れの在庫一掃セール品をかき集めてきたと思わせたが、不自由な生活を強いられる少年たちにとっては、貴重で、嬉《うれ》しい贈り物だった。  より価値のある品物を持っていれば、後々はそれを物々交換もできるのだ。  常に飢餓状態にあると、わずかな物でも満足できるように人は変わっていく。ささやかな恩恵を喜びと感じ、ありがたがるのだ。  そうやって、少年たちは、かつて、同世代のどの少年よりも肥大していた強欲さを、削《そ》ぎとられ、作り替えられていくのだ。  けれども慢性的な品不足と、島に囚《とら》われている不満は、少年たちを蝕《むしば》んでいて、暴れ出す切っ掛けを待っている。  天候不順のために、二ヵ月毎に来る輸送ヘリが来ないことも、ひとつの切っ掛けになった。  ヘリが来ないのでは、米や、生鮮食糧品の補給を受けられない。  畑で収穫できるトマトやキュウリといった野菜以外、果物もなくなり、最悪の状態を考えた李が、食材の節約をはじめたので、毎食の量が減った。  食事の他に楽しみがなく、食べ盛りの少年たちにとっては、不満に拍車が掛かった。  雨が降り続いた日の午後、仕事を午前中に終えてしまった秋生たちは、ホールで時間を潰《つぶ》していた。  集まっているのは全員ではなかった。最近、鬱《うつ》状態が進行している由樹也は、急《せ》きたてられ、駆り出されなければ一日中でも自分のベッドに潜ったままで、玄蔵たちはハウスで花を楽しんでいる最中だった。  普段でも滅多にホールに出てこない圭《けい》と、食事係の二人は、それぞれの部屋に籠《こ》もっている様子で、李《り》も、自分の部屋と決めた物置の一角から出てこない。  ホールにいるのは八人だけだった。  秋生は、南《みなみ》や、弘《ひろし》と隆吾《りゆうご》と一つのテーブルを囲み、ヒロと海人《かいと》、直之《なおゆき》と俊輔の四人がまた別のテーブルにつき、品物を賭《か》けたポーカーゲームをしていたのだ。  賭《かけ》ゲームは、日頃つき合いの薄い者同士で行われる。その方が品物の流通がいいからだった。  管理棟に呼ばれて行ったクリスは居なかったが、テーブルを移ってメンバーをチェンジするか、お開きにするかといった頃になって、帰ってきた。  クリスは、ホールに入ってくると、賭ゲームに興じていた仲間を見た。 「俺《おれ》も入れろよ、賭ける物ならあるぜ」  貰《もら》ってきたばかりの缶ビール六本と、ナッツの缶詰、チョコレートなどを袋から出して、クリスはテーブルに置いた。 「わあ、さすがぁ、クリス。戦利品も大きいね」  南が無邪気に賛辞をおくったのに対して、それらを横目に見た俊輔は、聞こえよがしに毒づいた。 「オカマ野郎が、所長と寝て、イイ気になってるなよ」 「なんだって?」  クリスではなく、海人の方が反応した。 「髭男《ひげおとこ》に守られてないと、なにもできないのかよ」  場が険悪になっていくが、クリスが揶揄《やゆ》する口調で言った。 「俺とやりたいのか?」  近づいたクリスを、俊輔は追い払うように手を動かした。 「うるせぇな、向こうへ行けッ」  俊輔が怒鳴った。 「俺は、おめぇみたいな奴《やつ》が一番腹立つんだ、淫売《いんばい》の、くそ野郎ッ」  俊輔は、最初の晩とあの嵐《あらし》の夜、男たちに犯されたという痛手から立ち直れないでいるのだ。  それが、男たちと関係を持つことに抵抗のないクリスに対する憎しみに変わっている。あるいは、クリスと鳩屋のセックスを見てしまった時から、秋生と同じで、おかしくなってしまったのかも知れない…。  秋生は、あの時クリスに感じた気持ちを受け容れたが、俊輔は拒絶しているのだ。  そして俊輔は、怒りの内圧が高まりすぎて、興奮している。誰かを痛めつけ、溜《た》まった鬱憤のはけ口が欲しいのだ。 「ガキみたいに突っかかってくんなよ。やりたいなら、やらしてくださいって言えよ」  まるで俊輔に応《こた》えるように、クリスも挑発を止めなかった。 「お願いしたらやらしてくれんのか? クリス」  ヒロが、場を収めるために、軽口をたたいた。 「俺に勝ったらな」  ヒロが口笛を吹いた。それから、自分にはとてもそんな気はないと、放棄したような仕種をみせる。ヒロは、クリスがただの男娼ではないことを知っているのだと、秋生は気がついた。以前、彼が教えてくれた情報は総てではなかったのだ。 「俊輔、やってみるか? 俺を床に這《は》い蹲《つくば》らせられたら、お前の望むことは何でもやってやるよ」  俊輔は、クリスから何でもやって欲しい訳ではなさそうだったが、痛めつける口実を与えられた好機に、即座に飛びついた。 「てめぇの自慢の顔、二度と見られねぇくらい、ぶっ壊してやるぜ」  獣に変身していくのかと思えるほど、俊輔は生き生きと眼を輝かせ、口許《くちもと》を残忍に歪《ゆが》めて言った。  秋生から言わせれば、俊輔は思慮が浅い。浅すぎる。  彼は、もっと早く気がつくべきだった。  所長に下賜されたものですら、何でも奪われてしまう環境の中で、クリスの首から下がった金貨のペンダントが無事な理由を、もっと、真剣に考えるべきだったのだ。  以前、「お前くらいの奴なら素手でも殺せる」と秋生に言ったクリスは、力に任せた荒技で挑んでくる俊輔に対し、機敏で、完璧《かんぺき》で、そして残酷だった。  床に押さえ込まれた俊輔は、肩の関節をはずされ、さらに、背後をとったクリスの前腕によって首を絞められていた。  素手で相手を殺す時には、咽喉《いんこう》や頭部を狙《ねら》うのだ。  うめき声も出せないまま俊輔の顔色が変わっていく。見物人が誰も止《と》めないので、秋生は、自分が止《や》めさせなければならないと思った。 「クリスッ」  制止したのは、圭だった。彼はホールの出来事に気がつき、降りて来たのだ。 「彼を殺して貰っては困るな」  秋生たちが宿舎に来た最初の夜、俊輔に死刑判決を下した圭が、今度はそう言って俊輔を助けた。 「なんでだ? こいつは、俺に殺されたがってるぜ」  うっすらとクリスは笑っている。眸が濡《ぬ》れて炯《ひか》り、白い頬《ほお》がほんのりと紅潮しているようにも見える。 「いま問題を起こされると困るんだ」  圭の言う「困る」の意味を、海人は知っているらしく、俊輔の上にいるクリスを後ろから羽交い締めにして引き離した。  クリスは、まだ物足りない様子だったが、海人に抱かれ、おとなしくなった。  床に這い蹲ったままの俊輔に近づいたヒロが呆《あき》れたように言った。 「ほんと困るよ、クリス。こいつは働かなきゃならないのに…。南、関節の外れた奴がいるって、李さんを呼んできて」  すかさず、南は走っていき、李を連れてきた。 「熱でる。無茶ばかりだ、あんたたち」  外された関節を入れて治した李が、誰に言うともなく呟《つぶや》いた。 「仕掛けてきたのはそいつだ。俺は貞操を守っただけだぜ」  女のように綺麗《きれい》だが、クリスには男の力が備わり、さらには、もっと危険な能力も備わっている。李は、クリスを見て、眼を細めた。 「所長に言っておく」  李が居なくなると、誰かが「ちくりやめ」と毒づいた。  夜になって、俊輔は発熱した。  俊輔は、熱に浮かされ、クリスを罵《ののし》る譫言《うわごと》を繰り返したが、そればかりではなく、秋生にとっては散々な夜となった。  由樹也がベッドで失禁してしまったのだ。  仕方なく、秋生は由樹也の身体《からだ》を洗ってやり、シーツを替えて寝かしつけてやらなければならなかった。  その合間に、俊輔の肩も冷やしてやらなければならない。  結局、俊輔の熱が下がったのは翌日の昼だったので、秋生は朝食を部屋に運ぶというサービスまで追加しなければならなかった。  クリスに殺されかけた日以来、俊輔はおとなしくなった。  裡《うち》に怒りと不満を抱えていても、あからさまに顕《あら》わし、誰かに突っかかるということもなくなった。  特に、クリスを避ける様子には、痛々しいほどの怯《おび》えが感じられて、秋生は複雑な思いがした。  由樹也の方は、躁《そう》と鬱《うつ》が短いサイクルで交互に来るために、仕事をさせるのに支障を来す日が多くなった。  それでも、毎朝の流木拾いから秋生たちの一日ははじまるのだ。 「海鳥が来てるよ、明日あたり、卵を獲りに行こうよ」  雨の中を調べてきた南がそう言い、久しぶりに卵獲りに出かけた朝だった。  絶壁から、由樹也が落ちたのだ。  だが、秋生は、南が由樹也を突き落とすところを見てしまった。  落ちていく由樹也は、まるで鳥になったかのように両手を広げ、風に乗ろうとしていた。  空を飛んで、自由になろうとしていたが、由樹也の望みは叶《かな》わず、荒波が逆巻く海に浮かぶ一個の物体になった。  足場のない切り立った絶壁から、海面の由樹也を引き揚げるのは不可能だった。  知らせを受けた管理棟の職員たちと、寮生の全員が集まり、黙祷《もくとう》を捧《ささ》げることで由樹也の葬儀を行った。  雨はやまず、由樹也のために泣いてるのは、空だけだった。  由樹也を突き落とした当人の南が、島中に咲き乱れていた夏草の野萱草《のかんぞう》を摘んできて、海へと放った。  弔いの花が、波間に浮かぶ由樹也のうえに落ち、静かに揺れていた。  秋生は、自分が見てしまった南の仕業を、誰にも話せなかった。  そして、由樹也が天へ昇って操作してくれたのか、翌日からは雨があがり、夏の太陽が島を照らしはじめた。  雨が降り続いていたならば、まだしばらく、由樹也の死という事件は皆にまとわりついていただろうが、天気が変わったと同時に、少年たちの感傷も切り替わってしまった。  やるせない思いを抱えた秋生だけが、立ち直れず、取り残された。 「秋生も飲んでよ、美味しいよ」  世話をしている乳牛から搾り、煮沸したミルクを、ヒロと南が全員に配っていた。  それぞれの仕事を終わらせ、あるいは適当にうち切って、夕食までの時間を潰《つぶ》していた少年たちには、最高のおやつになった。 「ね? ミルク嫌いじゃないんでしょう?」  明るく、無邪気にすすめてくる南から、秋生はコップを受けとって一気に飲むと、急いでホールを出た。  あの日以来、南の側にいるのは秋生にとって苦痛だった。  自分が何をしでかすか、判らなかったのだ。  秋生は、階段を駆けあがって二階へ行くと、その足でクリスの部屋へ行ってみた。  ホールにクリスの姿はなかったので、部屋にいると思ったのだ。  ところが、思考のほとんどを南に対する怒りに占められていた秋生は、肝心のことを忘れていた。  ドアが開いたままになっているクリスの部屋には、海人も居たのだ。 「入って来いよ」  ベッドに仰臥《ぎようが》して、腹の上に裸のクリスを乗せている海人が、頭だけを持ちあげ、秋生に声を掛けた。  ゆるく腰を動かしながら、クリスが振り返って秋生に視線をとめた。  振り返ったことで、まっ白い背中の、背筋が妖《あや》しげに歪んで、悩ましい曲線ができる。  ほっそりとした腰の間から、出入りする海人の昂《たかぶ》りが見えた。  下肢を動かしながら、口唇を開いたり閉じたりするクリスの仕種が、海人の抽送と連動しているのに気づいて、秋生は頬が赤くなった。 「来いよ。一緒に挿《い》れようぜ」 「そ…んな、無茶言うな……っ」  抗議したクリスに対し、自分の快感をいっそう高めるために、海人は攻撃を仕掛けた。 「あうっ」  クリスは身体の内が苦しいのか、背筋をうねらせて身悶《みもだ》え、腰が浮いていく。  逃がさない海人が、突きあげを激しくする。 「う、ううっ」  今まで、身に受ける感触を自分で調節しながら動いていたクリスは、ひとたまりもなく、屈した。  怺《こら》え切れない様子で、クリスは海人の胸元に両手を付き、上体を支えている。  海人は、抽送にリズムをつけた。  周期的な強弱にクリスの身体が馴染んだかと思われる頃を見計らって、予測できない動きで攻めたて、抉《えぐ》った。  その度に、クリスの上体はのけぞりあがり、口唇からはわめき声が洩れた。 「ああッ——」  二人の肉体が合わせられたところから発散する熱が、伝わってくる。  海人が繰り出す乱調子の交接は、いっそう勢いを増した。  クリスの息が弾んできた。 「ううん……ううっ……」  海人によって楽器のように奏《かな》でられ、クリスは歓喜を歌うのだ。 「ああっ…ああ……んっ……ああっ…」  強烈な嫉妬と、欲望が秋生を内から灼《や》いて、苦しめた。  だが、奏者を操っているのはクリスだった。  彼が海人を意のままに、自分の快楽に奉仕させているように見える。  自分の綺麗な貌《かお》を、歪ませ、恍惚にとろけ、淫《みだ》らに弛緩《しかん》させることで、男の達成感と征服感を煽《あお》っているのだ。 「あああ…ッ!」  クリスが、海人の上で、しなやかにのけぞった。  裡よりわきあがってくる快感に身をゆだね、つかの間、病んだ獣のように身悶えていたクリスは、やがて絶頂に咆吼《ほうこう》した。 「どうした、来いよ。やりたいだろう?」  海人が言うと、切ない貌のクリスが、秋生に向かって腕を伸ばし、五本の指を使って糸をたぐり寄せる仕種で手招いた。  秋生は、身体を奏でられたように感じてしまった。 「こ…いよ、一緒にやろうぜ」  ベッドの上からクリスが誘った。 「否だッ」  思わず秋生は叫び、逃げるように部屋を出たが、廊下に立っている南を見て、ドキリッとなった。  何時《いつ》からそこに立っていたのか、まったく判らなかった。  二人分のミルクを持って来た南は、自分を見て驚いている秋生に向かって、小さく肩を竦《すく》めてみせた。 「まだ駄目みたいだね」  そう言いながら、臆面《おくめん》もなく部屋に入っていき、壁際のベンチにカップを置いて戻ってきた。  先に歩き出していた秋生を、南が追いかけてくる。 「ね、あの二人、秋生と一緒にやるつもりだったのかな? 今まで、そんなの、海人が認めるはずないって思ってたけど、違うのかな…」  秋生は、それ以上南がなにか言い出す前に、口を開いた。 「どうして、由樹也を殺したんだ?」 「え? なぁに?」  戸惑ってしまわないうちに、秋生は一気にまくし立てた。 「俺は、お前が由樹也を崖《がけ》から突き落としたのを見たんだ。由樹也は自分で落ちたんじゃない。事故でもない。お前が殺したんだ」  繰り返し問いつめられる形になった南だが、すこしも動じた様子がなく、平然と言い放った。 「どうして? 由樹也は、死んだ方が幸せなんだよ」  南の言葉が、今まで秋生を抑えていた最後の我慢を引きちぎった。 「お前はッ!」  言葉よりも、手が先に出た。  秋生は、南を殴りつけ、その勢いで、彼を階段から転げ落とすという事態を招いてしまったのだ。 「何してるんだッ」  偶然、宿舎に来ていた鳩屋副所長と大木が、見ていた。 「喧嘩《けんか》は御法度《ごはつと》だっていっただろう」  気絶した南を抱えたヒロが、秋生を睨《にら》んだ。 「運の悪い奴《やつ》」  管理棟へと連行されていく秋生の耳に、朗《ロウ》が放った皮肉が聞こえた。  所長を前に、さっそく尋問された秋生だが、南を殴った理由は話さなかった。  由樹也を突き落として殺したからだとは、とても、言えなかったのだ。  そのために秋生は、職員たちによって代わる代わる殴られ、あげくに、独房に放り込まれる羽目になった。  夕食も与えられず、寝棚に横になっていると、夜中になってから佐古田が入ってきた。 「南を殴ったそうだな。何でだ?」 「ケンカです」  今まで考えていた理由を、秋生は口にした。 「なぜ喧嘩した?」 「口ゲンカなんです」  佐古田が信じるかどうかまでは考えないことにして、秋生は言い張った。 「口喧嘩で、あんなチビを殴るのか?」 「俺は、チビでも、女でも、誰でも、腹が立てばケンカしますから」  反抗的に秋生は言ったのだが、殴られたせいで頬《ほお》が腫《は》れていて、不明瞭《ふめいりよう》な声だったのは、自分でも口惜《くや》しかった。 「毎年そうだ。雨の時期や夏の暑い時期には喧嘩が多くなる。鬱憤が溜《た》まるんだな」  佐古田は信じたのか、そう言ってから、秋生の入っている独房の鍵《かぎ》をあけた。 「出ろ、出て身体を洗え、泥と血だらけだ」  秋生は佐古田の目的を知ってハッとしたが、素直に従って、シャワーのついた洗い場に行った。  冷たい水で身体を洗っているところへ、全裸になった佐古田が近づいてきた。  身体をまさぐられ、背後から石鹸《せつけん》を塗りたくられ、シャワーの雨の中で犯された。  荒々しい息づかいで責めてくる佐古田からは、タバコの臭いと、蜂蜜《はちみつ》を焦がしたような匂《にお》いが感じられ、痛みの他にも秋生を不快にさせた。  相変わらず、佐古田は一方的に快感をむさぼるだけだった。  やがて、自分だけが満足してしまうと、秋生を独房に戻し、鍵を掛けて行った。  朝になり、さらには天井に近い小さな窓から差し込む夏の陽光が、独房の床を舐《な》めるように移動する頃になっても、秋生の許《もと》には誰も来なかった。  秋生の感じている空腹と、喉《のど》の渇きは耐えがたいものになっていた。  そんな頃を見計らったのか、佐古田が入ってきた。  頬傷のある男は、食事を持ってきてくれたわけではなかった。 「どんな理由で口喧嘩したんだ?」  鉄格子を挟んで、ふたたび、南を殴った理由を訊《き》かれた。 「理由まで言いたくないです」  嘘《うそ》の理由をでっちあげても、直《す》ぐにばれるだろう。もう、南から事情を聞いているかも知れないとも思われたが、秋生は抵抗した。 「南にやらせてもらったのか?」  次に、佐古田はそう訊いてきた。  少年たちの争いの多くに、性処理の問題が絡んでいるのだ。華奢《きやしや》で、可愛《かわい》らしい外見をしている南から、佐古田は連想したのかも知れなかった。 「いいえ」  秋生は否定しながら、南とは話していないのかも知れないと考えるようになってきた。 「本当の事を言わないと、何時までも出られないぞ」  業《ごう》を煮やした佐古田が脅しに掛かってきた。 「お前一人くらい死んでも構わないんだぞ。どうせ、親にも見捨てられたお前なんか、誰も探さないからな」 「死」と、「親に見捨てられた」という言葉に、秋生はカッとなった。 「やっぱり、更生したら帰れるなんてのは、嘘だったんだなッ!」  この期に及んで、まだ所長の嘘を信じていたのかとばかりに、佐古田は秋生を嘲笑《あざわら》った。 「戻れるつもりでいたのか? そうだな、長生きしてれば、いつか、そんなチャンスもあるかも知れないぜ。長生き出来ればだけどな…、生憎《あいにく》と、お前の代わりはいくらでもいる。今日も三人来るからな」  出ていく前の最後の一言が、秋生を戦《おのの》かせた。  予定より一ヵ月遅れで、島にはヘリが来るのだ。  新しい少年たちも送り込まれてくるのだ。  秋生に、死の恐怖がわいたのは、ヘリの音を聞いた時だった。  絶望の中にいても、死んだ方がましだとは思えないでいる自分がいた。  佐古田にも見捨てられた秋生は、独房の中で三日目を迎えた。  暑さと、飢え、渇き、何よりも絶望で、肉体よりも先に心の方が死んでしまいそうになっている。そんな中で、微睡《まどろ》むたびに、秋生はクリスの夢を見た。  クリスは、母に代わり、またクリスに戻るのだが、目覚める瞬間には、あの臭い、——水死した徹の臭いを感じて、飛び起きた。  臭いを、脳のどこが記憶しているのだろうか。そして、これほど鮮明に思い出せるのだろうか……。それとも、これは死が忍び寄ってきているためだろうか……。考えるだけで、秋生は消耗した。 「凄《すご》い顔だぜ」  夢の中のクリスが、秋生に言った。  答えようにも、渇いた喉は声が出なかったが、いきなり、頭から水をかけられ、秋生は我に返った。  鉄格子の向こう側に、本物のクリスが立っていて、手に汲《く》んできた水を秋生に浴びせたのだ。 「クリス?」 「死んでるのかと思った」  笑っているクリスは、白のタンクトップに、ベージュ色のカーゴ・パンツを穿《は》いていて、そのパンツの両脇《わき》についたアコーディオンポケットからトウモロコシを二本取りだした。 「食えよ」 「助かった…」  茹《ゆ》でられたトウモロコシを受けとると、秋生は夢中で食べた。二本など、アッという間になくなってしまったが、生き返ったような気がした。 「凄い顔だぜ」  最初に秋生が夢の中で聞いたと思う言葉を、クリスは繰り返した。 「殴られたからな」 「そうじゃない、死人みたいだ。髭《ひげ》も、少しあるな」 「剃《そ》ってないからだ」  鉄格子の間を通ってクリスの腕が入ってくると、秋生はまばらに生えた顎《あご》の髭を撫《な》でられた。  たまらなかった。  下半身が、激しく反応してしまうのを、秋生は隠せなかった。  顔に出てしまったのか、クリスは笑った。 「その調子だ。元気出せよ」  気恥ずかしさを感じながら、秋生は美しいクリスを見あげた。  何時でも、クリスは美しかった。そして、性的な魅力を漂わせ、磁力を放って秋生を惹きつけるのだ。 「髭に感じるのか?」 「さあな、俺《おれ》、毛深くないだろう? だからかな、髭のある男が好きかもな」  それからクリスの声が、低く変わった。 「なぜ、南を殴った?」 「むしゃくしゃしてたからだ。あんたと海人のやってるところ見て、なんだか、むしゃくしゃして……」  今度、佐古田が来て問われたら、秋生はそう答えるつもりだった。  痴情のもつれという理由だ。  けれども、クリスは誤魔化《ごまか》されなかった。 「由樹也と関係があるのか?」  ぎくりとしたが、秋生は頭《かぶり》を振って否定した。  すでに南が喋《しやべ》ってしまっているかも知れないが、自分から、南が由樹也を突き落としたことは言うまいと決めていた。なぜか、頑《かたくな》に、秋生はそう決心していたのだ。 「関係ない」  クリスが、紅い口唇を笑みほころばせた。 「それでいい。お前は利口だ」 「どういう意味だ?」 「南とは、これからも顔を付き合わせていくんだから、本当のところは、自分の胸に納めておくんだな。なにしろ、あいつは、スイッチが切り替わるように変わるんだ。天使と悪魔に」  天使と悪魔ならば、クリスも同じだと、秋生は言いたかった。 「あんただって、似たようなもんだろう? 最初は、所長や海人と寝て楽しようとしてるのかと思ったけど、ぜんぜん違ったしな…、それに、俊輔を殺すつもりがあったのか?」  最初の夜と賭《かけ》ゲームの日、クリスは俊輔を殺せる立場にいたのだ。 「ここは、危うい均衡の上で成り立ってるんだぜ、乱すヤツは邪魔なんだ」 「危うい均衡か…難しいこと言うんだな」  ヒロも似た物言いをしていたと思い出しながらも、秋生は脱力したように壁により掛かった。 「だからって、殺すか、普通……」  トウモロコシの威力は薄れてきていた。ふたたび空腹が思い出され、身体が怠《だる》くなってきたのだ。 「どのみち死ぬ。精神がやられるか、中毒になる。ここでの生活を耐えるのに、栽培してるゴッドハンドの花をくすねて服《の》むようになるからな」 「五年目には、玄蔵みたいになってる…か——。みんな、どうかしてる」 「当たり前だろう。そういう奴《やつ》らが、ここに送られて来るんだぜ」 「クリス、あんたもどうかしてる奴なんだよな? 素手で人が殺せるウリセンなんて、信じられないからな…」 「ウリは俺の副業なんだぜ。本業は——」 「本業は?」  聞き返した秋生に対し、クリスはもう言い淀《よど》んだりはしなかった。 「殺し屋…っていったらいいのかな。俺は、そういう訓練されて育ったんだ。子供なら安心して近づける相手っているだろう? おまけに、この美貌《かお》だからさ、女の子の格好で殺してから、男に戻って逃げるんだ。十四歳くらいまでそうやって、父親に養われてた」  しっとりと落ち着いた声で話すクリスに、秋生は疑問を感じた。 「現代《いま》の日本か?」 「そうだよ。俺は十歳くらいから、殺しの他に、客とも寝なきゃならなくなって、それが嫌だったんだ。二つを愉《たの》しめなかった。どっちか一つだけだったら良かったんだけどな、…で、俺には、殺しの方が金になるし、簡単だったんだ」  事も無げにクリスは言うのだ。  ふいに、秋生は落ち着かなくなった。  今までにも、海人や、ヒロに警告されていた気がする。自分でも、気づいていたはずなのに、今さらながら、クリスのことが恐くなってきた。 「俺は、嫌になって父親から逃げたんだけど、ルートがないと、殺しの依頼とかって入ってこないんだ。結局、ウリしながら暮らしてたら、見つかって、連れ戻される代わりに売られたんだ。俺は殺しやるにはもう目立ちすぎる容姿《かお》になってたしな、あいつは、賭博場の借金があったから、金持ちの変態に俺を売ったんだよ……で、それが仙北谷の組だったんだ」  親に売られたとクリスが口にするのはこれが始めてではなかったが、この時、秋生は感じていた畏怖《いふ》が解けてゆき、放っておけない、いたわり合いたいという愛情のようなものを覚えた。 「お前が、親は名前に意味を込めてつけるって言っただろう? だったら、俺の父親は、最初から俺を人殺しの武器にするつもりで、クリスってつけたんだぜ…」 「知らないで、悪いこと言ったよ」 「いいさ、お前を怒ってるわけじゃないんだ。けどな、俺が、なんでここにいると思う? こんな島に閉じこめられてるのか……」  秋生は返答に困った。帰れないからという以外の理由があるのか、判らなかったのだ。 「俺は、普通の生活ってしたことないんだ。学校にも行ったことがないし、友達もいないって言っただろう…。でも、ここでは人間的に生きられるからさ」 「こんな生活のどこが普通なんだよ。人間的だっていうんだ?」  思わず反論した秋生に、クリスは、美しく、ぞっとするような笑みを見せた。 「俺は、人を殺すのを何とも思わないんだ。そういう感覚が麻痺《まひ》してるんだ。けど、ここに隔離されていると、そんな衝動を抑えていられる。みんな、死が目の前にあって、でも、それを見ないように生きてる。死ぬなんて思ってもない奴らを殺すのとは全然違う」 「人を殺したことがないから、俺には判らない気持ちだな…」  そう答えた秋生を見て、クリスは眼を細めた。 「俺が恐くなったか?」  秋生は頭を振って否定した。  クリスの過去を知ってしまう前に、秋生はクリスの別の面を知ってしまった。  いま、トウモロコシを持ってきてくれたのも、殺し屋で、男娼《だんしよう》だったのと同じ人物《クリス》なのだから———。 「クリスーッ、いつまで話してるんだ」  相談室側のドアが開き、顔は見えないものの、癇性な仙北谷の声がクリスを呼んだ。 「いま行くよ」  クリスは答えると、秋生に向きなおり、声を落とした。 「お前を出してもらうために、俺はあいつを愉しませてやらなきゃならないんだぜ」 「そんなの、俺は頼んでないぜ」  秋生は胸が痛んだ。 「だったら、ここで死にたいのか?」 「いや、死にたくない」  頭を振って、秋生は呻《うめ》いた。 「ちくしょうッ、こんなところで死にたくないぜ」  これは本心だった。  シッと、クリスが人差し指を口唇にあてて秋生に黙れと示し、早口で言った。 「お前は人が殺せるか? 自分が生き残るために、他人を殺せるか? 秋生…」  だがクリスは秋生の答えを聞かずに、ドアの方へ行ってしまった。 「考えておけよ…」  ドアが閉まる寸前に、クリスの声が聞こえた。  五日目の朝になって、ようやく秋生は宿舎に帰されることになった。  その間の、一日一食と、職員のセックス付きという独房生活は、秋生を消耗させた。  とりわけ、佐古田の扱いは残酷なほどで、痛めつけられた秋生は、おとなしい生き物に変わっていったが、生への渇望はいっそう高まっていた。 「死んだって噂《うわさ》だったぜ」  戻ってきた秋生に、ヒロがいつもの調子で言った。  彼は、秋生が相棒の南を殴ったことを怒っていない様子だった。  普通に迎えられ、ホッとしたのもつかの間、やってきた三人の新入りが、秋生たちの部屋に入っていた。  由樹也が居なくなって一人減ったところに、三人増えたのだ。  新入り三人のベッドが入り、もう、移動はベッドの上を歩くしかない状態だった。 「お前のベッドは死守しといたぜ。けどよ、どうせなら、一人部屋の奴を突き落としてくれればよかったのにな、南の奴」  俊輔が、帰ってきた秋生に言った。 「知ってたのか?」 「見たからな。けどよ、俺も、由樹也は死んだ方があいつのためだったと思うぜ」  複雑な気持ちで、秋生は俊輔の言葉を聞いていた。それでは、ヒロも知っているのだろう。故に、南を殴った秋生の気持ちも判ったのだ。だから、怒らないのだ。 「南たちは?」 「新入りに洗濯させてるぜ、ヒロはそこら辺をうろうろしてたろ? あいつ新人係だからな」  ヒロには会ったばかりだったが、この時間の洗濯は、秋生たちの仕事だったのだ。 「お前は洗濯しなくていいのか?」 「俺《おれ》は、ハウスに変わったんだぜ」 「ハウス?」 「お前もさ、一気に畑飛び越えてハウスだぜ。多分、由樹也の口封じかも知れねぇな」 「みんなが知ってるみたいなのに、今さら口封じなのか?」 「そんなことまで知るかよ、圭が仕事説明するから来いってさ、俺ももう行く。おめぇには伝えたからな…」  俊輔は、どこか眠たげで、だるそうに見える。その様子に、もしかしたら俊輔が花に手を出し、中毒者になり始めているのではないかと、秋生は思い当たった。  壊れていく俊輔を、秋生はとめられないだろう。  次には自分がそうなるのかも知れない。  秋生は、何もかも追い払うように頭を振ってから、南に謝るために階下へと降りた。  洗濯室で、ヒロと南は三人の新入りを相手に何か説明をしていたが、秋生に気づいた南が、一人だけ廊下に出てきた。 「南、悪かったよ。殴ったりして……その、どう償えばいいか判んないけど」  素直に頭を下げた秋生に、南は可愛《かわい》らしい微笑《ほほえ》みを向けた。 「いいんだよ。でも、僕のこと黙ってたんだって? 判ってもらえたんなら、それでいいんだ。僕、苦しんでいる人をみるとね、助けてあげたくなるんだよ」  天使のように微笑みながら、南が無邪気に言った。 「それが、僕の使命なんだって思うんだ。神様が、僕にそうしろって言うんだよ」  次に南はすこしばかり悪戯《いたずら》っぽく瞳《ひとみ》を輝かせた。 「でも早く出られてよかったね。クリスが助けてくれたんでしょう?」 「ああ…」 「クリスったら、本当に秋生が気に入ったんだね。だったら大変だよ、海人とやり合わなきゃならなくなるよ」  小首を傾げた南の仕種は、可愛い小動物のようにも見える。けれども、彼の顔立ちや、仕種や、無邪気さをどう捉《とら》えていいのか、いまの秋生には判らなかった。  南がくすくす笑った。 「ね、海人を、なんとかしたげよっか?」 「そんなっ」  狼狽《うろた》えた秋生を、南が甲高い声で笑った。 「嘘だよ。海人に敵《かな》うわけないじゃない。それより、新入りを紹介するね、仕事の覚《おぼ》えが悪くってさ、ヒロが手こずってるんだ」  新入りは孝司《たかし》、翔《しよう》、祐太朗《ゆうたろう》と紹介された。彼等が、島に来て三、四日目ということは、自分の身に降りかかった状況を受け容《い》れられずにいる時期でもある。仕事を覚えないのではなく、反抗しているのかも知れなかった。 「圭に呼ばれてるから、行ってくる」  居心地の悪さを感じている秋生は、南の前から逃げだす口実を口にした。 「ハウスの仕事でしょ? 畑係飛ばして一気にハウスだから直之たちが僻《ひが》んでるけどね、圭が決めたんだから、誰も逆らわないよ。よかったね」  南と別れて、秋生はハウスの方へと向かった。  すでに花を食べたと思える俊輔を見てしまったので、南が言うようにハウス係になるのがよかったのかは判らない。自分も、花に手を出さないでいられる自信がないのだ。  ドーム型の屋根を持つハウスは、軒高が三メートル、幅が四メートル、棟の長さは六メートルといった大きさで、巨大な蒲鉾《かまぼこ》にも見える。特に、被覆材に白い強化ビニールが使われているので、空から見た時に、秋生はそう思ったのだ。  そして、巨大な蒲鉾の中には、左右と中央に十段の棚があり、人間の握り拳《こぶし》の形をしたサボテンがぎっしりと並んでいた。 「じゃんけんのグウの形をしてるだろう、だから、ゴッドハンドというんだ」  圭は、驚き、見ている秋生にそう説明すると、一つ一つが植木鉢に植えられ、生育順に並んでいるゴッドハンドの中から、紅い花の咲いているものを取りだした。 「これが花だ。指の間から咲くから、まるで燃えてる炎を手で掴《つか》んだみたいな感じだろう? 俺たちは炎花《フアイア》って呼んでる」  握り拳の真ん中から咲いている紅い花は、確かに燃えあがる炎のように見える。不思議な、美しい魅力を持っていた。 「サボテン類の花は、みんな派手でキレイだけど、ただ、この花にはアルカロイドが含まれてて、食べると、幸せな気分にもなれるらしいがな」  秋生を唆《そそのか》すように圭は言ってから、簡単に育て方を説明した。 「元々はサボテンの仲間だから、温度の調節と湿気に気をつけてればそれほど難しくないのさ。土の表面が乾いたらコップに半分くらいの水をやる。それで半月は持つ。ただ時々、棚に並んでるのを入れ替えたりする方が出来がよくなるが、生育自体は遅くて、少しずつ肥っていく感じだけど、花が咲いたら摘みとるんだな、じゃないと、花に養分取られて実がやせるんだ」  中央の棚を挟んで作業用の通路になっている。そこを歩きながら、一通り見て回った秋生は、思ったよりも簡単な気がした。  ハウス係は楽だと思ったのだが、そんな秋生を見透かしたのか、圭が言った。 「このハウスで慣れたら、一ヵ月後には三棟を受け持ってもらう」  言われて秋生はギョッとなった。一棟だけでも、何百とあるのに、それが三倍になるとしたら、半端な仕事量ではなさそうだった。 「収穫には四ヵ月かかる。子株だけ残して、後は乾燥室に入れて小さく凝縮させておき、ヘリが来たら積み込むんだ。一番大変なのは、子株の植え替えだな、数が多いからな。でも、奴《やつ》らは、ゴッドハンドに高値がつくから、ハウスをもっと増やしたがってるけどな」  圭は、炎を思わせる花を指でむしり取り、秋生の手に渡した。 「炎花は、干して煙草みたいに吸うって手もある。それなら、大した摂取にならないから、気晴らしになるかもな…」 「あんたは、どうしても俺を中毒にしたいのか?」  眼鏡の奥の眸《ひとみ》が笑っていた。  秋生には、圭が自分を実験台として扱っているのではないかと思われてきた。そして俊輔は、その手口に堕《お》ちたのかも知れない……。  秋生は、試すつもりはなかったが、炎花が咲くたびに摘みとり、それをハウスの片隅に干しておくことにした。  圭は教えてくれなかったが、ハウス係はそうやって乾燥させた炎花を管理棟の男たちに渡し、欲しい品物を得ていると知ったからだった。  第六章 決断の刻《とき》 「試してみたか?」  ハウスの内部、並んだ棚の隅に古いTシャツを広げ、四隅を縛った上で、秋生《あきお》はゴッドハンドに咲く炎花を乾かしている。  ひと抓《つま》みしたクリスが、指先で揉《も》むように丸めながら、訊《き》いてきた。 「試すわけないだろ」  秋生が顔を背けるようにして答えると、クリスは笑った。 「我慢強いな、俊輔《しゆんすけ》なんか、最初の日からやってたぜ」  そう言うと、クリスはズボンのポケットから紙煙草《シガレツト》用の細いパイプを取りだし、地金が仕込んである先端に乾燥した炎花を詰めた。  同じ形のパイプは、佐古田《さこた》の部屋にもあった。  秋生が見ている前で、クリスはマッチを擦って火を点《つ》けると、心持ち顔を仰向《あおむ》かせ、ゆっくりと吸煙した。 「やめろよ、中毒になったら…」  クリスは靄《もや》のように白い煙を吐きだしながら、秋生を凝視《みつ》めた。 「花くらいは何でもないさ、煙草と一緒だよ」 「けど、玄蔵《げんぞう》たちはもう中毒なんだろう?」  肯定する形にクリスは頷《うなず》いた。 「あいつ等は、花を食うからな。生で食うと直《す》ぐにやられるんだけど、煙にして吸ってるんだから、もっと安全だぜ」  クリスは、予備の植木鉢や支柱、水やりのジョウロ、脚立などを置いている場所へ行き、ハウスの被覆材《ビニール》を巻いた大きな円筒《ロール》に腰を下ろした。  秋生が休息の時に座るのもその場所だ。そして今、クリスが座った隣に、秋生が座れるだけの余地は充分にあった。  けれども、並んで座るのは憚《はばか》られた。  島に来る前に、クリスが何をしてきたのかを知ってしまったから…ではなく、これ以上、クリスと深みにはまらないようにするためだった。  もう、誰の眼にも、クリスが秋生を気に入っているというのは明らかになっていたが、よりにもよって俊輔から忠告されたのだ。 「あいつと海人《かいと》はデキてんだろう、おめぇは、人の女に手ぇ出してるってことにならねぇか? 他人のモンにちょっかい出すのは、やばいぜ」と言ってきた俊輔は、炎花の中毒になってからの方が人当たりがよくなった。  俊輔ばかりではなく、最初から、ヒロや南からも忠告されていたのだ。  このままでは、秋生は、危うい均衡の上で成り立っている少年たちの人間関係を乱す者になってしまうかも知れないのだ。 「なに深刻になってんだよ。いいか、煙草は三本食うと致死量のニコチンが体内に入って人間は死ぬんだ。けど、炎花は食っても死なない。ラリっちまうだけだぜ。そんな花を煙にして吸うってだけなんだ。死んじまう煙草よりもずっと害がないと思わないか?」  クリスは、秋生が別のこと、——クリスとの関係について悩んでいるとは思わなかったらしく、炎花の喫煙について話しだした。 「あんたたちは、そんなに、俺《おれ》を中毒にしたいのか?」  秋生も話を合わせた。 「気が楽になるって言ってんだよ。第一、吸ってないのは、圭とお前と、今度の新入りくらいだな」 「全然、知らなかったよ、あんたも吸ってたなんてさ」  秋生は、クリスも吸っているのだとは知らなかった。今まで、彼はそんなことは一言も言わず、素振りも見せなかったのだ。 「皆の前では吸わないってのが、暗黙のルールだからな、自分の部屋か、ハウスで吸うのさ」  畑係や、食事係も、何かと交換でハウス係から乾燥炎花を手に入れるのだろう。ここでは、物々交換しか出来ないのだから…。 「一度くらい試してみろよ」  秋生の眸《ひとみ》を覗《のぞ》き込み、クリスが言った。 「俺を好きだろう?」  話がどうしてそこへ飛ぶのか、面食らった秋生を、なおもクリスは煽《あお》った。 「だったらもっと俺に気に入られたいはずだぜ。それとも、もう、俺が嫌いになったのか?」  これ以上、クリスを好きになってはいけないと思ったばかりなのに、秋生は挑発されていた。 「そんな交換条件があるかよ。くそっ、貸せよッ」  ついに秋生は、クリスの手からパイプを受けとると、口に銜《くわ》えて、一息に吸った。  蜂蜜《はちみつ》の焦げるような匂《にお》いがして、深く吸い込んだ途端に、秋生は眩暈《めまい》に襲われ、蹲《うずくま》ってしまった。 「効く…ぅ…」  手から落としかけたパイプをクリスが受け取り、自分で一服してから、秋生にむかって煙を吐きかけた。 「いきなり吸うからだ」  秋生の目の前に、光が飛び散った。  淡い輝きがまわりを飛び交い、すべての物が発光しはじめて、きれいな色彩を帯びた。  懐かしい、暖かな匂いがした。  それは、子供の頃に住んでいたアパートに漂っていた匂いで、夕食の時に家々の窓から、家族の声と一緒に流れ出てきていたものだった。  まだ若い母、貴美子が目の前にいた。  けれども直ぐに、母親の姿は白い光の中に吸い込まれ、虹色に輝きながら手の届かないところへ遠退《とおの》いて行く…。置いて行かれるという哀《かな》しみが、秋生の胸を衝《つ》きあげてきた。 「秋生」  突然、クリスの声で魔法が解けた。 「大丈夫か?」  金砂色の髪を持つ、美しい少年が秋生に微笑《ほほえ》みかけていた。  新たな魔法がはじまったのだ。 「だ…大丈夫だ……」  感覚が鋭くなっているのか、自分の声が脳に突き刺さってくるのを感じた。 「初めてだから悪《バツド》酔い《トリツプ》したか? けど、慣れれば楽しめるぜ。このパイプ、お前にやるよ。俺はまた所長《パパ》にもらう」  クリスがそう言ってくれたが、秋生は頭《かぶり》を振って拒絶した。  一瞬かいま見てしまった甘美な幻覚に、秋生は心を捕らわれ、歓《よろこ》びも哀しみも操《あやつ》られた気がして、酷《ひど》く、腹が立っていた。  感情の振幅が大きすぎるのは危険なのだ。  特に秋生は、母親に棄てられ、義父に裏切られ、二度と戻れない島に送られたという理不尽な扱いに、自分の精神が壊れてしまわないようにする手段として、感情を抑えてきたつもりだった。  挑発に負けた時もあったが、出来る限り、喜怒哀楽の振幅を狭めて自分の精神《こころ》を守って来たというのに……。 「いらないよ。俺には合わないのが判った…」  その時、突然にクリスが着ていたTシャツを脱ぎ、半裸になったので、秋生は慌てた。 「何で脱ぐんだよ、なまっちろい身体《からだ》だすな」 「ここ暑いな、寒冷紗《かんれいしや》を引いた方がいいぜ」  そう言いながら、瞬く間に、クリスは身体からすべてを取り去り、首の金貨の他には、穿《は》いてきたミュールだけという姿になった。  眩《まぶ》しいほどに明るいハウスの中に出現したクリスの裸体は、青いほどに白く、硬質で、大理石や石膏《せつこう》で出来た神話の人物像のような完璧《かんぺき》さだった。  だが、彫像と違い、身動ぐたびに、身体には曲線や、歪《ゆが》み、影が生じ、その部分から妖《あや》しい色香が漂ってくるのだ。  いきなりクリスが、見とれていた秋生の股間《こかん》へ手を差し入れ、触れた。 「俺の裸を見ると、こうなるのか?」 「違う、炎花を吸ったせいだ」  弁解した秋生を、クリスは眠たげな眸でみつめた。  目じりのあがった、冷たいほど碧銀色《ブルー》の眸を持つクリスが、もの憂げな眼眸《まなざし》になった時に醸しだされる扇情的な雰囲気は、息苦しいほどだ。 「ふふふ…、でも、俺も——だ」  手を取られ、クリスに触れた秋生は、彼が変化してくる素晴らしい感触と熱を、てのひらの中で味わった。  それが、自分が彼に与えているものなのだと思うと、狂おしいほどの興奮が熾《おこ》ってきた。 「管理棟の奴らにやられたんだろう?」  秋生は答えなかった。  答えたくないのを知っているクリスは執拗には訊かなかったが、裸の身体を押しつけてきた。 「お前みたいな男は、やられるとしばらくは落ち込むんだろうな、俺が治してやるよ」  言われて、秋生に火がついた。 「治してくれるんなら、俺にやらせろっ」  強引に秋生はクリスの肩を掴み、身体を抱くように押さえつけた。  クリスが笑った。 「俺に勝ったらな……」  けれども秋生が、炎花の作用か、力の入らない、くすくす笑ってばかりいるクリスを征するのは簡単だった。  被覆材《ビニール》の円筒《ロール》に押し倒され、クリスが短い叫び声をあげた。 「判った、判ったから、やらせてやるから、手をゆるめろよ」 「俺の思い通りにさせるか?」  巨大なロールの上からコンクリートの地面に落ちたとしたら、かなり痛いだろう。笑いながら、クリスは降参した。 「それで? 何をして欲しい?」  どちらであっても、快楽の主導権を執るクリスが余裕を持って秋生に訊いた。 「そこに両手をついて、俺に尻をむけるんだ」  秋生は被覆材のロールを指で示した。 「後背位《バツク》がお望みか?」  まだ余裕を持っているクリスが、ロールに両手を付き、秋生へと背を向けた。 「見たいんだ。あんたのアソコを」  踵のあるサンダルを履いているので、持ちあがった腰の位置が高く、うつくしい。 「変態になってきたな、お前も」  上半身が前に傾き、下肢を差し出す形になったクリスは、自分がどれほど挑発的で淫《みだ》らなポーズになっているのか判っているだろうか…と秋生は思いながら、腰に手を掛けて白い肉を分け、青い陰になっている部分を剥《む》きださせた。  かすかにクリスに慄《ふる》えが走ったが、秋生はさらに親指を食い込まれるほど谷間に差し入れて、拡げた。 「すげぇ……」  間近で見た妖《あや》しいコーラルピンクの環に、秋生が呻《うめ》くと、クリスが身をよじろうとした。  だが、秋生は掴んで開いたまま放さなかった。  クリスも、もがいただけで諦め、終わりにさせようと挑発ぬきで言った。 「もういいだろう?」  腰が退け、逃げてしまう前に、秋生は拡げた谷間のくぼみを舌先で舐《な》めた。 「うわっ…」  感電したようにクリスが反応した。 「バカ、やめろっ」  クリスが狼狽《ろうばい》したのを、秋生ははじめて見た。 「動くなよ、何でもさせるって約束だろう」  約束という言葉にクリスは舌打ちをして、諦めたように背筋を伸ばした。 「約束」は、彼にとっては守らなければならないものなのだろう。言葉で呪縛してから、また秋生はクリスのコーラルピンク色をした部分にねっとりと舌を這《は》わせてみた。 「やめろったら」  直《す》ぐにクリスがむずかるように腰を揺すった。 「挿《い》れていいからッ、そのまま挿れてもいいから、やめろよ」  だが秋生は尖らせた舌先で、クリスをめくりあげ、内部にまで侵入させ、ねぶった。  敏感な舌端にヒクヒクと蠢《うごめ》く肉の襞《ひだ》を感じる。 「ああっ!…」  クリスから極まったような声が洩れた。 「だ…めなんだ」 「なにが駄目だって?」  ロールに両手を付き、上体を前屈みにさせているクリスは、下肢をもどかしげにもじつかせている。 「なんだよ、ショウベンしたいのか?」  秋生が訊くと、クリスは金砂色の髪を振って否定した。 「違う、舐められると、すごく感じるんだ……」  いつものクリスらしくない。 「感じるのが駄目ってのは変だろう?」  面白くなった秋生は、クリスに舌を差し入れ、思いつく限りの方法でねぶった。 「あ……ああっ、あああ——!」  秋生の舌先を感じる秘められた一点から、背筋を這いのぼってくる快美感にクリスの脳は侵されてしまったようなのだ。爪先だって立ちながら、身体をブルブルと小刻みに慄わせている。 「も…う…立ってられない……」  同時に秋生の方も我慢の限界だった。 「挿《い》れていいか?」  ズボンの前を開いて、弾け出たものをクリスの身体に押しつけ、秋生は呻いた。  ロールに手を付いたまま、クリスは肩越しに振り返って秋生を見つめた。  眸《ひとみ》の碧《あお》が、澄み渡って、夏の海のような色になっている。  ここに来て拒絶されても、秋生は後には退けない。わき起こった嵐のような衝動が、起爆の瞬間を待っているのだ。 「ああぁ…来て、来いよ……」  顫《ふる》える声がクリスから洩れた。  秋生は青い狭間にあるコーラルピンクにあてがい、つぼまった環を拡げさせるように、先端を押し込んだ。  入り込んだ途端に、秋生は眩暈がしそうな快感に襲われ、下腹部に力を入れて抑えなければならなかった。 「う……うう」  凶暴な肉の塊を埋《うず》められたクリスの方は、コーラルピンクの環が、解けたようにひろがってしまっている。  仙北谷《せんぼくや》の部屋での時と、海人とベッドにいた時には、はっきりと見えなかったクリスの秘密が、ようやく秋生にも判ったのだ。  ギシリと秋生を包んでいるクリスの腸管《なか》は熱かった。  動かそうとすると、ピンク色の粘膜が、めくれたり、内へと巻き込まれたり…と、痛々しくも淫らに見える。 「熱い——…」  クリスが喘《あえ》いだ。  熱を感じているのは秋生だけではないのだ。  挿《はい》り込んだ秋生自身もまたクリスに熱を与えているのだ。  欲望を怺《こら》えられなくなった秋生は、二人の接合部分を見ながら、抽送を開始した。 「く…うぅ……」  クリスは喉を鳴らしただけで、抗議も、制止も要求しなかった。  秋生は抽送の速度を速めながら、伸びきってしまった環を、なおも拡げたり、歪ませたりしようと、身体を揺すってみた。 「あっ! あっ! あっ!」  いくつもの、小さな絶頂感にも襲われ、クリスは呻きをあげるようになった。  ぶつけるほどに激しく、いっそう深い乱打が秋生から繰り出されると、もうクリスの呻きはすすり歔《な》きに近づいた。  絶頂が近いのだ。  それも、受け挿れている部分で感じるエクスタシーは、長く余韻を引き、身も心も、脳の思考も奪ってしまう。  秋生は、クリスを内から壊そうとでもするかのように激しくさせた。  クリスの身体が反りあがった。 「…は……はぁ……う、ううっ……あ、ああっっ!」  性的に興奮した紅い口唇が開き、空気を求めて喘いだ。  口唇が喘ぐたびに、クリスの内は、締まり、ゆるみ、さらには蠕動《ぜんどう》まで起こしてくる。  狂いそうなほど激しい快感がその度に秋生を襲い、ついには限界を超えさせ、爆発を引き起こした。  終わった時、秋生はクリスの背に倒れ込むようにもたれかかった。  凄《すさ》まじい快楽に耽《ふけ》った秋生だが、クリスを完全に満足させる前に自分が到達してしまったのを知った。  ——結局は、秋生が翻弄されたのだ。 「達《い》けなかったのか?」  ロールにしなだれかかっていたクリスが、振り返り、笑った。 「そんな、女に訊くみたいなこと聞くなよ…」 「けど……」  視線を下げた秋生は、躊躇《ためら》いながら言おうとした。 「だったら、海人を呼んで来いよ。三人でやろう」  秋生が戸惑うと、クリスは少しずつ身体を伸ばすようにして起きあがった。 「お前が行かないなら、俺が呼んでくる」 「待てよ、行ってくるから……待っててくれ」  出ていったらクリスは戻ってこないだろうと直感的に判った秋生の方が、折れた。  やってきた海人は、直ぐに状況を呑み込み、自分が何をすればいいのかを察した。  まずは、クリスをお仕置きするのだ。そう言わんばかりに、海人はロールに両手を付かせたクリスの尻を、平手で打った。 「アウッ!」  もっと熱いもの、猛々しいもの、貫くもの、快感を喚起させてくれるものが来ると思っていたクリスは、驚き、声を洩らした。  海人は双方を交互に、同じだけの強い力で打っている。  何度めかの平手打ち《スラツピング》の時、海人は叩くと見せかけて、狙いを定め、クリスのくぼみに親指を突き込んだ。 「ああ…ッ!」  ビクッと上体をのけぞらせ、クリスが叫んだ。 「…あ……い……い…」  のけぞった上体が、小刻みに齣送《こまおく》りされるように俯《うつむ》き、元に戻っていく。 「ぐちゃぐちゃじゃねぇか、やったばっかしって訳だ」  そう言った海人は、掻き出すように親指を使い、クリスをいじりだした。  クリスの内に溜まっている秋生の快楽の証が、海人の親指でこね回されているのだ。 「腹ん内がビクビクしてるぜ、クリス。なあ、どんな感じだ?」 「ああ…よせったら……」  腰を淫らにくねらせて逃げかけるクリスを海人は許さなかった。 「うるせぇな」  腕ごと指を動かしながら海人が急きたてる。 「どんな感じか秋生に教えてやれよ、そうしないと、止めないぜ」 「アッ、アアッ」  すらっと伸びた下肢の中心から、艶めかしく淫らな音が聞こえてくる。  かなり激しく海人はいじり回しているようだ。  仙北谷の所で、クリスの腸管をまさぐった時の甘美な感触が思い出される秋生には、海人と同調できるものがある。そうして、クリスがどんな感じでいるのかを、知りたかった。 「言えよ、クリスッ」 「頭んなかまで…かき回されてるみたいだ……アウッ!」  海人が手首を回したのが判った。  クリスの先端から透明な蜜液がしたたり落ちている。 「身体中…どろどろになって溶けていきそうだ」 「聞いたか、秋生」  餓えた虎が、獲物を前に舌なめずりしているような目つきで、海人は秋生に向かって言った。 「こいつは、弄られんのに弱いんだぜ」  海人は指戯を続けながら、もう一方の手で自分の前を開き腹に突かんばかりに猛った男の象徴をさぐり出した。  親指をひき抜いてクリスにあてがうと、わずかに膝を曲げ、張りつめた男を押し入れた。  瞬間に、クリスは眸を大きく瞠《みひら》き、口唇をひらいたが、海人のすべてが入ってしまうと、まるで安堵したかのように、両方を、ゆっくりと閉じていった。  直ぐには動かずに、海人はロールに付いたクリスの手を放させて、お互いの身体の位置をかえた。  今度は海人がロールに腰掛け、さらにクリスは下肢で繋がった海人の上に腰掛けている形になったのだ。 「ああ…く……っ……か…いと…」  体位が変わったことで、感じる圧迫感も強まったのか、クリスは頭を振って拒絶を表した。  さらに海人は、両手をクリスの膝裏に差し入れると、下から足をすくいあげ、左右へと広げた。  張りつめて、きゅっと持ちあがった男の象徴の下奥までもが露わになり、突き刺さっている海人の男が見えるようになった。  ミュールの脱げてしまったクリスの足が宙に浮き、爪先に力が入っているのが判った。  串刺しにされた姿なのだ。  苦しいのか、クリスは背後の海人に凭《もた》れかかって喘ぐばかりで、自分がとらされている凄まじい格好を気にする余裕はなさそうだ。  それとも、美しい肉体のすべてを見せびらかすように広げているのかも知れない。 「あ…はぁ……」  クリスの腰が浮きあがり、腿《もも》の付け根がひくついた。  海人が、抱えたクリスの身体を腕の力で持ちあげたのだ。  持ちあげておいて、腕の力をゆるめ、落とした。 「うっ!」  硬直したように、クリスは背筋を伸ばした。 「か…いとっ……きつい……っ…」  持ちあげて、落とすという方法で責められはじめたクリスが、抵抗して海人の身体を押し退けようとしている。  けれども、足が地に着いていない状態では、海人の思うままに動かされるしかなかった。 「ウウッ」  持ちあげられ、落下させられるたびに、クリスの金貨も跳ね、キラキラッと輝いた。  甘美な串刺しの刑は、海人が欲望を怺《こら》えられる限り繰り返されるのだ。  だが途中で、海人は秋生を呼んだ。 「ここへ来いよ、舐めさせてやるぜ」  そう言った海人は、クリスの前方に手を添えて扱《しご》きあげると、先端に指をかけ、爪先で割れ目を開いた。  ガーネット色の孔が見えた。  クリスが身悶えを起こしている。  海人の指が孔を刺激した途端に、悦楽の先走りが溢れでた。  吸い寄せられるように両足の間に入った秋生は、クリスの中心に顔を埋め、口唇をつけ、舌先で巻き取ると、自分の口腔に迎えいれた。  ねっとりと舌を絡めて舐め、溢れるものをしゃぶりとってから、秋生は顔をあげてクリスの様子を見た。  クリスは眼を閉じ、海人に寄りかかっていた。 「やれよ、お前が銜《くわ》えると、クリスの内が締めつけてくる」  もう海人は、自分は動く必要がないと言いたげだった。  秋生は、ふたたび口に含んだクリスの、シャフトの部分を舌でくるみ込んで舐め、口唇をつぼめて擦った。  グランスに到達すると、いっそう念入りにむさぼり、ガーネットの孔に舌を差し入れ、あふれる快楽の証を啜りあげた。  クリスを抱きかかえ、挿入している海人が、動きはじめた。 「ひ……うっ!」  咥《くわ》えさせられ、限界まで広げられた環が、出入りする海人に擦られるたびに、ヒクヒクと顫《ふる》えるのが見える。  海人は、しぼり立てられているのだ。  秋生も妖しい、淫らな気持ちになって、口唇でクリスを愛した。  前後を責められているクリスから艶《なま》めかしい息づかいが洩れ、速まり、ほとんど喘鳴《ぜんめい》のようになった。  荒々しい三人の息づかいが、ハウスの空気を震わせ、ゴッドハンドたちに吸い込まれていった。  もつれ合い、絡みあった身体をほどき、余韻が去るのを待ってから、クリスは身体を洗うためにハウスを出ていった。  身体が洗える場所は、宿舎の浴室か、そうでなければハウスの水やりに使う貯水槽だけだ。どちらにしろ、クリスは着ていた服を置き、裸のまま出て行ったので、秋生の方が困惑した。  白昼から、全裸になっているクリスを誰かが見たら、どう思うかが気になってしまったのだ。  けれども海人の方は少しも気にしている様子はなかった。そればかりか、着替える途中で、クリスのパイプを拾いあげ、秋生の方を見た。  海人は秋生を睨《にら》んでいる。  秋生は今度、自分のハウスで海人と二人きりでいることが気になり、慌ただしく身の回りを始末して、せめてもとズボンまでは身につけた。 「クリスも吸《や》ったのか?」  おかしなことを言う海人に、秋生は聞き返さなければならなかった。 「俺に吸えって脅してきたのはクリスだぜ。先に吸ったのもクリスだ…」 「あいつ、本当は吸わないんだぜ」  意外な海人の言葉に、秋生は驚きを感じた。それならば、なぜクリスはあれほど執拗《しつよう》に吸煙を勧めてきたのかを考えなければならなかった。 「吸えば気が楽になるって言ってた。俺をリラックスさせようとしてくれたのかもな……」  それならば判ると思ったのか、海人が口唇の端を歪めて頷いた。 「管理棟で、クリスはお前に話しただろう? 何やってきたかって…ことをさ、それであいつが恐くなったか?」 「いや、なんでだ?」  クリスから聞かされた過去は、二人の関係の転機になる可能性もあったが、実際にはそうならなかった。だが、海人は関連づけて考えた様子だった。 「お前は戻ってからずっと、俺やクリスを避けてるからな」  避けているのはこれが初めてではないが、あからさまに感じられたのならば、理由も説明しておいた方がよかった。人は、言葉で説明しないと、悪い方へ考えてしまうことがあるからだ。 「忠告してくれるやつがいるのさ、人のものに手を出すなって」 「そいつは、正しい」  秋生の答えを聞いた海人は、ニヤリと笑った。 「クリスがお前とやりたいというのなら、俺は反対する権利はないが、いいか、忘れるなよ。あいつは俺のもんだぜ」  高圧的に所有権を口にする海人を、秋生は睨んだ。 「なに内緒話してんだよ」  ハウスに戻ってきたクリスは、裸を晒したまま一直線に歩いてくると、睨みあっている二人を見て言った。  彼の象牙《ぞうげ》のようになめらかな肌は美しく、碧《あお》い瞳が、まだ欲情に濡《ぬ》れて艶《なま》めしく輝いていた。 「お前は俺のモノだってのを、こいつに教えてたところだ」 「バカ言え」  海人を否定して、クリスが片眉《かたまゆ》をもちあげた。 「お前も、そいつも、俺のモノに決まってるだろう」  その通りだった。  二人を支配しているのは、クリスだった。  真夏日が続いた日の午後、三ヵ月前に、徹と二人で脱走した正巳《まさみ》が島に還ってきた。  寮生たちはそれぞれの仕事に就いていたが、島中を駆けめぐったサイレンの音に脅かされ、流木拾いの入り江に集められ、対面させられた。  発見したのはヒロと南だった。  流木を集め、液体洗剤の空き容器を浮き輪替わりに結んだ手製筏《いかだ》には、夏の太陽で乾き、海鳥たちに啄《ついば》まれ、骨の露出した上半身だけが乗っていた。  振り落とされないようにと、自分の手首に巻いた紐《ひも》を筏に縛りつけていたことで、死んでからも上半身だけが残ったのだろう。下肢は海の生き物に引きちぎられ、食われたのかも知れない。  三ヵ月間、潮の流れに乗って島の周りを回っていたか、どこかの岩場か、海食洞に引っかかっていたのが、何かの拍子に流れ出て来たのか、あまりに無惨な姿だった。 「こりゃあ、乾物だな」  管理棟から来た大木が顔を歪めて言った。 「よーく見ておけ、逃げようなんて考えたら、こうなるんだぜ」  例によって、見せしめのために正巳の遺体は利用されることになった。  今回、宿舎の前に運んだのは新入りの祐太郎たちだったが、島に来てから、ずっと反抗的な態度で仕事を続けていた彼等も、さすがにショックが大きかったのか、従順になった。  けれども、この日以来、秋生も、徹の水死体を片付けさせられた時を思いだしてしまい、自分が壊れていくのを自覚した。  由樹也の死も、中毒者に堕ちていく俊輔も、自分とは遠いものではない気がするのだ。  腹の底から、哀《かな》しみと、怒りが混じりあって塊となったものが迫《せ》りあがってきている。  だが、それはあまりに大きな塊となってしまったので、容易に喉《のど》を通らない。  吐き出せない苦しいものを抱えたまま、秋生はほとんど機械的に仕事をこなし、日常生活を送るしかなかった。  時々、やりきれなくなると、乾燥させた炎花を吸いたい誘惑に駆られた。  最初で懲《こ》りたつもりだったが、絶望から逃避するには、それが一番手っ取り早い方法だと判っていた。  ビニールのロールに腰掛けた秋生は、作業着のポケットからパイプを取りだすと、指先で弄《もてあそ》んでみた。  炎花《はな》を吸えば、一時でも気持ちは楽になるだろうが、後から自分の意志の弱さにひどい自己嫌悪がやってくるのも判っている。  何時《いつ》でも吸えるが、限界まで我慢してみるつもりだった。 「花なんか吸わないんじゃなかったのか?」  突然、声を掛けられ、秋生は驚いた。  考えにふけっていたので、クリスが入ってきたのに気がつかなかったのだ。 「吸うかどうか、悩んでただけだ」 「堕ちていくのは早いぜ……」 「最初に誘ったのは、あんただろうが」  反発して怒鳴った秋生だが、クリスがすぐ近くにいるということを、意識せずにいられなくなってくる。 「ふふ…、あの時は、お前には少しくらい気晴らしが必要だと思ったのと、試したかったんだ」 「試すってなんだよ?」 「意志の強い奴《やつ》かどうか…かな」  言われた秋生は、頭《かぶり》を振って否定した。 「駄目になるかもな、俺《おれ》——…」  秋生が口にした弱音を聞き、目の前に立ったクリスは笑った。 「簡単に駄目になるなよ。海人を怒らせてまでお前に入れ込んでる俺の立場がなくなるだろう」 「なんで、俺なんかに入れ込んでるんだよ」 「タイプだって言っただろう」  もっと、なにか決定的な言葉が欲しかったが、それを要求できるほど、現在《いま》の秋生は自分に自信がなかった。 「最初の夜、独房で一緒だった時、お前はクールな眼をしていた。この島に連れてこられた奴は、そんなんじゃない。俊輔みたいに苛《いら》ついてるか、泣いてるかだったから、お前のこと、面白いと思ったんだ」  あの時の秋生は、事態をよく飲み込めていなかったのだ。その上に、どうにでもなれと絶望していた。  異父弟の誕生を知らなかったこと、母に見捨てられたショックで、どこか正常ではなかったのだ。 「元気になれよ、秋生」  クリスに励まされ、秋生は彼の顔を見て、表情の奥にあるものを読みとろうとした。 「あんたは平気なのか? あの死体を見て」  秋生は無意識のうちに息を止め、クリスが答えるのを待った。  宿舎の前に晒された正巳は、何度かの夕立を浴びたせいで、乾ききっていた肌が水を吸い、あらたな腐乱がはじまっていた。  腐乱とともに、臭いが漂い、日中は巨大な蠅がびっしりと集《たか》った。  管理棟は、片づける許可を出さない。今回は、クリスも交渉に行くつもりはない様子だった。 「平気だと思うか?」  クリスの声が冷たかった。 「いや、悪かった。平気な奴なんか、居ないだろうな……、クソッ、島から逃げようとすればああなるのかッ!」 「この島で五年もった奴はいないそうだからな、どうせお前も、あと四年くらいの命だぜ」  追い討ちをかけるようなことをクリスが言った。 「くそッ」  秋生が罵《ののし》り声をあげるのを聞き、クリスの碧い眸が細められた。 「逃げたいのか?」 「当たり前だろう。こんな島で死んでたまるかッ!」  管理棟の独房に閉じこめられている時にも、秋生はクリスに向かってそう叫んだ。 「前に俺が言ったことを憶《おぼ》えてるか?」  秋生は頷《うなず》いた。 「お前は、人が殺せるか? 自分が生き残るために、他人を殺せるか?」そうクリスは訊《き》いてきたのだが、ずっとその答えを考え続けていて、とうに、秋生の結論は出ていたのだ。  生存への本能が、身体のなか、脳の奥の原始的な部分から、秋生に強く働きかけている。 「殺せる。いや、殺すさ、自分が生きるためなら」  秋生の答えを聞いたクリスは、黙って手を差し出した。  手を取れという意味かと思った秋生が腕を伸ばすと、クリスは秋生の手首を掴《つか》み、グッと強い力で引き、立ちあがらせた。 「来いよ、脱出計画を話してやる」  クリスに促され、自分のハウスを出た秋生は、もっとも宿舎から遠い場所にある、圭の管理するハウスのひとつに連れて行かれた。  そこは、ゴッドハンドの芽株を専用に栽培しているハウスで、誰が出入りしても見咎《みとが》められる心配のない所だった。 「連れてきたぜ」  ドアを開けたクリスは、ハウスの中に向かって、秋生を連れてきたことを知らせた。  中には、ヒロ、南、海人、圭がいた。 「仲間に加える資格はあるのか?」  眼鏡の奥から、冷たい黒い眸を秋生に向けた圭が、クリスに問いかけた。 「大丈夫。こいつはまともだし、やれるさ」  何がまともだというのか、秋生は問い質《ただ》したかったが、直感的に、いまは口を開くべき時ではないのを悟り、黙っていた。  だが、「脱出計画」と聞かされた時から、ある種の予感と緊張で鳩尾《みぞおち》の奥がチリチリと痛み出していた。 「次にヘリが来るのは、九月二十日頃だ。職員の交替はないが、寮生が乗ってくる可能性はある」  所長から仕入れた情報をクリスが教えた。 「九月下旬なら、季節的にも悪くない。今年の最後のチャンスだ」  答える圭の言葉や、ヒロたちと交わされる会話を聞いているうちに、秋生は、彼等がヘリコプターを乗っ取り、島から出ようとしているのだと察した。  秋生が島に連れてこられた時のヘリは、パイロットを入れても七人乗りだった。 「全員で逃げるのか?」  思わず、秋生の口から出た疑問に、圭は驚いたように、サッと振り返った。 「逃げるのは俺たちだけだ。お前を加えて、六人」  秋生の動悸が激しくなってきた。  逃げられるのかという期待と同時に、他の仲間を見捨てるのだという後ろめたさが、わき起こってきた。  けれども、もっと恐ろしい現実を告げられることになった。 「逃げる前に、管理棟の職員たちと、ヘリに乗ってくる副操縦士を殺さなければならない。パイロットは殺せないが、寮生が乗っていたら彼等にも死んでもらう」  圭が、声を低めた。 「所長は人質にとるが、他の奴らを、俺たちは一人が一人を殺す。それがヘリに乗るための資格だ」 「寮生が何人来るか、直前まで判らないんだろう? クリスなら聞きだせるのか?」  ヒロの疑問に、クリスが頷いた。 「何人来ても構わないさ、先に管理棟の奴らを殺して、持ってる拳銃《けんじゆう》を奪っておけば直《す》ぐに済む」  いとも簡単に言ったクリスだが、秋生の方は見なかった。 「一人一殺にしても、武器はどうするの? みんな自分で用意するの?」 「南は何を持ってるんだ?」  逆にクリスに聞き返され、南はぽかんとした顔になった。 「ええっ、僕、なんにも持ってないよお……でも、牛小屋で使ってるフォークかな、あれで突き刺したら死ぬよね?」  農業用の熊手《フオーク》は、長柄の先に尖《とが》った四本の鉄爪《てつづめ》が付いたものだ。秋生の知識の中では、熊手は対峙《たいじ》した敵の皮膚を削《そ》ぎとる武器だった記憶がある。平安時代のような大昔からの武器なのだ。  微笑《ほほえ》みながら、クリスが頷いた。 「上等だな、練習しておけばいいさ」  判ったとばかりに南もにっこりと微笑み、ヒロと頷きあった。 「他は自分で用意できるな?」  後を受け、圭が念を押し、それぞれが頷いたが、秋生だけは、困惑していた。 「逃げる計画は、いきなり思いついたのか? 誰が言い出したんだ?」  脱出計画の中身を知った秋生は、訊かずにいられなかった。 「言い出したのは俺だ。元々、俺は島に三年もいればいいと思ってたからな、けれど、なかなか脱出の機会がなくて延びてしまったが、いよいよ実行する気になったんだ」  圭の答を聞いても、秋生はまだ納得できていなかった。 「時期って、今がその時期なのか?」 「そうだ。九月は、夏の間に育って乾燥させたゴッドハンドの量が一番多いんだ。大収穫で管理棟の奴《やつ》らはそっちに注意がむいてるし、季節がいい。なんといっても、泳がなきゃならないからな」 「泳げないのか?」  ヒロに訊かれ、秋生は頭《かぶり》を振って否定すると、なおも疑問をぶつけた。 「だったら、なんで去年の九月には実行しなかったんだ?」  眼鏡を指で押しあげ、圭は秋生を凝視した。  蛇のように動きのない、冷たい眼だった。 「去年は、別に問題があったからだ」 「その問題を聞きたいな」  クリスが、「こいつの慎重さをみろ」とでも言いたげに、肩を竦《すく》めた。 「去年は、クリスがいなかったんだ」  圭が答え、またもヒロが横から補った。 「俺たちだけじゃ、しくじるかも知れないからな…」 「どうしてクリスは居《い》なかったんだ?」  秋生を除く全員が、お互いの顔を見合わせたように思われた。彼等が、眼と眼とで怪しげな通信を送りあい、結論を出したのは数秒後だった。 「俺は、海人に鎖骨を折られたんで、管理棟で寝てたのさ」  当人のクリスが答えた。  思わず、秋生が海人を見ると、彼は、苦笑にも近い、苦みばしった笑みを浮かべていた。  黙った秋生から、納得したものと判断した圭が、脱出計画の先を続けた。 「仙北谷を人質にヘリを乗っ取ったら、直ぐに島を離れ、近くの陸地へ向かわせる。それで、陸地が見えたところで低空飛行させながら、順に海へ飛び込み、泳ぐんだ」  かなり危険な計画になりそうだが、圭は成功を信じて疑わない様子で続けた。 「ヘリにライフジャケットが積んであるだろうけど、前に海から回収した液体洗剤の空き容器があるな、あれを浮き輪代わりに身体《からだ》につけていく。一人で五個もあれば浮くし、浜が近づいたら外せばいい」  徹と正巳の手製|筏《いかだ》にも、ブルーやピンクの液体洗剤が入っていた容器が浮き代わりにくくりつけてあった。 「格好わりいなぁ…けどしょうがないか」  ヒロが呻《うめ》いたのを、圭は無視して続けた。 「運良く陸にたどり着いたら、現地解散だ。いや、空中解散だな。その後は、それぞれが自分でどうにかする。俺たちは二度と会わない」  話す圭の語尾が、歓喜に顫《ふる》えている。  彼にとっての潜伏期間は終わったのだ。  ふと、秋生は、島から疫病が放たれ、都市が冒されていくという光景を思い描いた。  もちろん、疫病には、自分も含まれている。 「秋生、決心できないなら、お前は残れ」  いきなり、クリスが言ったので、秋生はハッと我に返り、自分を取り巻く他の少年たちの方へと視線を巡らせてみた。  全員が、いまは秋生を見ている。 「一日だけ、考えさせてくれ」  秋生の答えは、集まった少年たちの不興《ふきよう》を買った。 「どういうことだ、クリス。彼はここまで話を聞いたのに、考えさせてくれと言ってるぞ。承知できたんじゃなかったのか?」  圭から、危険なものが漂いはじめた。それは、周りの空気の色を変えてしまうのではないかと思われるほど、濃く、暗い色だ。 「心配するな、こいつは、ただ慎重なだけだ」  今まで黙っていた海人が、秋生を庇《かば》ったクリスに言い返した。 「計画を洩《も》らさない保証はないけどな」 「秋生はしゃべんないよ。今まで見てきて思うけど、抑制が利いてるからさ」  ヒロが、皆に向かってではなく、秋生自身に聞かせるように言った。  だが、クリスの声は冷ややかなものだった。 「計画を喋《しやべ》るなよ。洩らしたら、その時はお前を殺す。俺がな…」 「知った以上は裏切らないさ」  即座に秋生は否定した。 「ただ、本当に俺に人が殺せるか、そうしてまでここから逃げたいか、もう一度考えてみたいんだ」  射抜くような碧《あお》い眸が、秋生を見ていたが、すぐに、紅い口唇が持ちあがり、蠱惑《こわく》的な、まばゆいばかりの微笑みがクリスにひろがった。 「この島でじわじわ死んで行くか、自分が生きるために闘うか、お前は判っているはずだ」  クリスの言葉は余韻を伴って秋生の裡《なか》に残り、ずっと、長く響いていた。  深夜、秋生はクリスの部屋を訪ねたが、彼は居なかった。  床に脱ぎ捨てられた服、乱れたベッドの様子と、窓枠に並んだビールの空き缶などを見ているうちに、クリスがどこにいるのか見当がついてきた。  彼は海人と愛し合った後、浴室で身体を洗っているのだ。  かつて男娼《だんしよう》の副業を持っていたクリスは、濡《ぬ》れ事の後にはシャワーを浴びるのが習慣になっているらしかった。  何時《いつ》までも男の精液にまみれているのが嫌だったのかも知れないし、直ぐに新しい客の相手が出来るようにするためかも知れない。 「ぼうっとしてると、後ろから襲われるぞ」  音もなく、猫のように背後に忍び寄っていたクリスに声を掛けられ、秋生はワッと飛び退いた。  秋生が示したあまりな驚き方に、クリスが笑い出した。 「お前って、全然進歩しないな、いつも俺に驚いてるんだから…」 「いつも、脅かすような場所にいるからだ」  まだクスクス笑いながら、全裸のクリスは秋生の脇《わき》を通り抜け、ベッドに腰を下ろした。  夜中に、宿舎の中を全裸で歩き回っていられるのはクリスくらいだ。そう思いながら、秋生は、彼の白い身体に海人との情事の痕《あと》が残っていないかを探す自分に気がついて、恥ずかしくなった。 「決心ついたのか?」  履いていた革のミユールを脱いでベッドに横たわったクリスは、首から下がった金貨のペンダントを弄《もてあそ》びながら秋生を見て、言葉を継いだ。 「俺と行くことに……」 「クリス…、あんたは島に居たかったんじゃないのか? ここの生活が自分には人間的だって言ってたじゃないか」  管理棟の独房でクリスは過去を告白し、そう言ったことを秋生は持ち出した。 「二年だぜ、そろそろ島の暮らしに飽きたとも言っただろう…。海人たちが本気なら、俺《おれ》も乗るのさ」  一拍おいてから、クリスが聞き返した。 「お前はどうするんだ?」 「行くよ。あんたたちの計画に加えてもらう、ただし……」  秋生は即座に答えを返し、さらに条件を加えた。 「ただし?」 「俺に、佐古田を殺させてくれ」  心の奥に閉じこめ、鍵《かぎ》を掛け、思い出さないように努めていた佐古田への憎しみが、秋生の声をざらつかせた。 「そう言うと思ったぜ…。今だから教えるけどな、南のことで管理棟に捕まっていた時、佐古田は、お前を殺すつもりだったんだぜ」 「本当か?」 「あいつは、やりながら首を絞めるのが好きなんだ。死ぬ間際の痙攣《けいれん》がたまらないんだってさ、だからお前を殺す気になってた」  それで、戻ってきた日にヒロが言った「死んだって噂《うわさ》だったぜ」という意味がはっきりした。 「だから助けに来てくれたのか?」  肯定する代わりにクリスは笑った。 「何でもっと早く教えてくれなかった? それなら、俺はハウスで直《す》ぐに賛成したのに…」 「俺は、衝動的な怒りで仲間に加わる奴《やつ》とは組まないんだ。しくじるからな」 「いまは、組んでもいいと思ってるのか?」  資格があると秋生は認められたことになるのだろうか…。 「ああ」  頷《うなず》き、横たわったクリスの首筋、ちょうど鎖骨のあたりに金貨のペンダントが引っかかっている。 「鎖骨骨折ってもう大丈夫なのか?」 「一年も前だぜ。手術なしの全治四週間だから大したことはないのに、所長《パパ》が大騒ぎして、ヘリで医者とか呼んだからな、他の奴らも大事だと勘違いしてるのさ…」  医者が呼ばれるというのは、所長のクリスに対する執着が深いからこそで、破格の出来事に違いない。そしてクリスが、「海人に殺されてもいいと思った時」というのは、この一年前のことなのだろう。  秋生は、海人がどういう処罰を受けたのか、知りたかった。 「海人は俺みたいに罰せられたのか?」 「処罰はなしさ、俺が、海人の名前を言わなかったからな」 「どうして?」 「言えば、海人はパパに殺される。そんなの面白くないだろう」  クリスは、秋生の命を救ってくれたばかりではなく、海人の命も救っていたのだ。  狭量なことだが、秋生は落胆に襲われた。 「こいよ…」  くすぐるような声で笑ったクリスが、ベッドから手を差し伸べ、秋生を手招いた。 「お前はいま、濡れた犬みたいな顔だったぜ」  誘われるがままに近づいた秋生は、クリスのてのひらと自分のてのひらとを触れ合わせると、お互いの指を絡め、祈りを捧げる形に握りあった。 「あんたは性悪の猫みたいだ」  顔を近づけた秋生は、潤んだクリスの碧い瞳を凝視《みつ》めながら、口唇をあわせた。 「眼くらい、閉じろよ」  クリスの眸は、暗がりの中でも光を放っているかのようだ。  普段は緑に近い碧なのに、銀みを帯びて、輝く青い星の色に見える。 「眼なんか閉じてたら、その隙《すき》に殺されるかも知れないだろ」 「俺がそんなことするかよ」  憤慨する秋生に、またもクリスは喉《のど》を顫わせて笑い、囁《ささや》いた。 「お前を見ていた方が、感じるからな」  それから二人で、眼の中に映る自分を見ながら、何度も、何度も、口唇を合わせて、舌と舌を吸いつかせるように絡めた。  キスだけで、秋生は下肢が興奮し、それによって、下腹部の筋肉が強張ったように締まってくるのを感じた。  心地よい感触だった。  直ぐに、心地よいなどとはいっていられなくなった。  痛みをともなう快感が、男の部分から秋生を支配しようとしていた。 「脱げよ」  言われて裸になった秋生の、獰猛《どうもう》に変化した部分を見てクリスは笑った。 「俺をやりたいか? それとも、やられたいのか?」  秋生は覆い被さる形でベッドにあがり、水を浴びて、水晶のように冷たいクリスの身体に触れた。 「やらせろ」  獣に近づきつつある声で、秋生が囁いた。 「お前のって凶暴だよな、それでまた、俺を犯《や》る気なんだな……」  抑制できないほどの渇望に、秋生の声がいっそう獣じみた。 「あんたのアソコを舐めて、指でほじくり返してから、犯ってやる」  海人と分かち合った快楽の証が残っているのならばすべて掻き出して、秋生は自分だけで埋めたいと思っているのだ。  眩暈《めまい》を感じたように、一瞬だけクリスは眼を閉じたが、直ぐに、秋生の下から身を翻し、反撃に出た。 「そんなこと、させるかッ」  クリスが、今度は逆に秋生の身体の上に乗った。  浴室でクリスを受け入れた時と状況が同じになってきている。秋生は、甘美な戦慄を覚えた。  だが、海人に抱かれた後だというのに、クリスの方が、欲望を強く、激しく募らせているようで、執拗でもあった。  身体を下げてゆき、勃《た》ちあがった秋生の先端を掴《つか》むと、下肢をひらき、自分から押しつけたのだ。 「いいか? 俺が、お前を犯すんだ」  そう言ったクリスが、立てた膝を屈して、身体を降ろした。  秋生の先端がクリスの環をくぐり抜けた。 「う……ん…」  声が洩れたのは秋生の方だった。  海人を受け入れてまだ間もないと思われるのに、もう次の侵入者を拒んでいるクリスの内に納まるまで、秋生は苦しいほどの快感を覚えた。 「ああ…お前…すごく、いいぜ……」  秋生のすべてを納めてしまったクリスも、昂まりゆく快感に眼を閉じた。 「お前……とは相性がいいな……っ」 「そんなのあるのか?」 「あるさ、すごく、感じる」  とりこみ、身体を伸ばし、恍惚とした美しい表情を見せるクリスは、秋生に対して安心しきっている様子だ。  敏感な肉体の内で秋生を味わい、愉《たの》しんでいるのだ。 「他…の奴らとやってる時だって感じてたじゃないか」 「ああ、感じるさ、でも、こんなじゃない……」  秋生の裡《なか》から、クリスに対する感情が溢れてきた。  彼が好きだ。  クリスへの愛情が秋生の心身を浸していき、脳にまでも達し、永遠に記銘《きめい》されるまでそれほど時間は掛からなかった。  では、自分は彼のために何が出来るだろうか…。  肉体を合わせて、愛撫しあい、快感と、同性愛に対する、あるいは海人に対する後ろめたさ、——クリスにはないかも知れないが——その罪悪感を共有するのだ。  腹の上に乗った形のクリスを、秋生が下から突きあげた。 「あうッ!」  クリスが叫んだ。  叫んだと同時に、秋生をとりまいていた圧迫が増し、うねりが起こり、啜《すす》りあげるように搾《しぼ》りたててきた。  秋生は、かろうじて爆発を怺《こら》えた。  このままではクリスに征服されてしまう気がする。  腕を伸ばした秋生は、金貨のペンダントを繋いでいる鎖に沿って指をはわせてゆき、クリスの首筋に手を差し入れて引いた。  クリスの上体が秋生の胸元に降りてくる。  身を屈めたクリスが、秋生の口唇にキスをくれた。 「好きだぜ」  聞こえるか聞こえないかの声で囁いた秋生は、クリスの首筋から背中へと腕を回し、抱きしめると、勢いをつけて身体を反転させ、アッという間に、自分と身体の位置を変えさせてしまった。  急激な動きにも、クリスの内は秋生をギシリと包んだままで放さなかった。  上体を倒され、今度は逆にベッドに仰《の》け臥《ふ》すことになったクリスは、抗議も起こさなかった。碧い眸を妖しい焔で光り輝かせ、秋生を凝視《みつ》めただけだ。  秋生は、クリスに挿入した状態で、彼を上から見下ろすのは初めてだったが、素晴らしい眺めだった。  ふんわりした金砂色の髪に縁取られた綺麗な貌《かお》と、青いほどに白い肌に、官能的な部分はピンク色をしていて、特に胸の突起は、口に含んでみたくなるほどだ。  触れたいと顔を近づけた秋生は、クリスの内を深く進むことになった。 「ん……っ」  抉《えぐ》られ、仰け反ったクリスの胸元がいっそう持ちあがり、ピンク色の突起が秋生に近づいた。  身を屈め、首を伸ばして、秋生は突起を舌先にとらえると、口に含んだ。  歯をあてて左右に噛みながら、吸った。  クリスの内に、新たなうねりが生じて、秋生を包んでいるすべてが蠢《うごめ》きだした。  闘わなければならない時が来たのを察した秋生は、甘美な突起を口唇から放すと、クリスの両足を抱え、突いた。  呻きを洩らしたクリスが、押し返してくる。  さらに力強く、秋生は快楽の虜《とりこ》になっている分身を使って、クリスを攻めはじめた。  深々と埋《うず》め、先端まで引きずり出し、つぼまっていくところをまた押しひろげて咥《くわ》えさせると、今度は揺り動かし、ピンク色の環が、その度に引きずり込まれたり、ねじれたり、めくり出されたりするのを見た。  淫らで、……きれいで、欲望が刺激される眺めだった。  舌が届くのならば舐めたかった。指を挿入して、いじり回したかった。 「あっ……あっ」  むずかるように腰を動かしながら、クリスは歓喜の声をあげた。  秋生の暴力に屈することなく呼応して、クリスは自分の快感をむさぼっているのだ。 「ああっ、…ああっ……」  激しい悦びの声が続けざまにクリスの口唇からほとばしった。  秋生はこみあげてくる絶頂感と闘いながら、つぼまった熱い隘路《ないぶ》を開き、抉り、グラインドさせた。  クリスは、深く秋生を咥えた腰をしゃくりあげるように動かして、激しい、脳が眩《くら》むほどの快感をつくりだしてくる。  どちらが負けるか判らない勝負のように、二人は愛し合った。  第七章 未来へ  秋晴れの一日を約束するかのように、宙《そら》には満点の星が瞬《またた》き、波の静かな夜だった。  十二時頃にベッドをぬけだした秋生《あきお》は、隣室のヒロと南《みなみ》の所へ行き、朝になるのを待つことになった。  今までにも何度か、夜中に部屋を出ていくという前例をつくっておいたので、今夜が特別の日であるとは誰にも気づかれなかったはずだ。  最初の頃、夜中に出ていく秋生に気づいた俊輔《しゆんすけ》は不審がり、どこへ行くのかと訊《き》いてきたが、行き先と、何をしに行くのかを察した途端に、露骨な嫌悪を向け、秋生は口もきかなくなった。  二人の仲が険悪になったのを感じ取った新入りたちの態度もよそよそしくなり、秋生は部屋の中で孤立したが、それこそが予定通りだったのだ。  そして、今夜こそが決行の日だった。  急ぎで出荷を望む農場側の事情からか、輸送ヘリの到着日が一週間早まり、九月十三日となったのだ。  何時《いつ》もは午後になるヘリの到着も、今回は午前中で、乗ってくる生徒はなしとクリスが情報を仕入れてきた。  それによって、圭《けい》の立てた計画も若干の変更を余儀なくされ、決行するべきか見送るべきかの最終打ち合わせが行われたのは、ハウス係が総出で乾燥させたゴッドハンドを袋詰めし、ヘリポート脇にある倉庫へと運んだ後だった。  全員が、決行を望んでいた。  むしろ、朝のうちに片付けられる方が、宿舎に残していく者たちに気づかれる心配が少ないのだ。その上、乗ってくる少年たちがいないとなれば、余計な殺しをする必要がない。  打ち合わせの時に、手順を確認しあった。  皆が眠りに就いているうちに管理棟を襲い、所長以外を皆殺しにする。それからヘリの到着を待ち、操縦者を脅して島から離陸させるのだ。  もっとも近い陸が見えてきた時点で、海岸線に沿って飛行させ、二人ずつ順に海へと降下し、陸まで泳ぐというものだった。  管理棟の灯光が消えるのが四時。  薪拾いの祐太朗《ゆうたろう》たちが目覚めるのが四時半。  七時半には、六人が朝食に姿を現さないのを不審がる者もいるだろうが、だからといって六人を探して回る者たちがいるとは思われない。たとえ気がついて管理棟に押し寄せてきても、玄関の鉄製扉を封じておけば、高い柵《さく》で囲まれているヘリポートへの侵入は不可能なのだ。  一人が一人を殺すのが義務だ。  秋生は佐古田《さこた》を殺すことになっていて、今はもう、何の惑いもなかった。  ただ、独自の運動で鍛えている佐古田を、確実に殺せるかに全神経を集中するしかないのだ。  秋生の武器は、ハウスで使う鉄の導管を切断して造った手製のニードル・ナイフだった。  それは、中が空洞になった三十センチほどの円筒で、握る部分にビニールテープを巻いた凶器だ。先端を斜めに、竹槍《たけやり》のように鋭く尖《とが》らせ、導管の空洞を利用することで、ターゲットの首、あるいは心臓を斜め下から一突きにした時、噴き出した血を、素早く、多量に流れさせることができるのだ。  一本はクリスがくれたが、もう一本を秋生は自分で造った。  確実に殺すためには、首、胸、腹を順に狙《ねら》えとクリスから教えられ、秋生はナイフの尖った先を突き込むという練習を行ってきた。  硬く踏みしめた土に突き込み、手に感じる抵抗を確認するためだ。  それから、汚れたナイフを丁寧に洗い、大切に管理する。 「武器を身体に馴染《なじ》ませ、手入れして愛してやることが必要なのだ」そうクリスは言った。  クリスも同じ武器を使う予定だったが、あとは南が熊手《フオーク》と言っていた以外、誰が何を使うのか、秋生は知らず、聞くつもりもなかった。  夜半、ハウスに武器を取りに行き、秋生はヒロたちの部屋を訪ねた。  凸型の宿舎で、クリスの部屋とちょうど反対側になるヒロたちの部屋は、窓が二ヵ所にある快適な十畳だった。  この計画がない限り、ヒロたちは秋生に限らず他人を部屋に入れるつもりはなかったのだろうが、今は、すすんで協力していた。  二人の部屋は、どちらがきれい好きなのか判らないが、片づき、何もかも整っていて、一番目を引いたのは、時計だった。  これで、予定の時間に遅れずに済む。  それから三人は、誰かが入ってきた時のためにトランプを前に広げてみたが、心は別のところにあるのは明らかだった。  恐怖と緊張と、それらと同じくらいの大きさで存在する希望が、すべての原動力だ。  午前三時。  行動の時間が来た。  月光のような灯光が島をあぶり出すなか、管理棟近くの松林に身をひそめた五人は、遅れているクリスを待っていた。  昨夜、クリスは所長に呼ばれて管理棟で過ごしたが、夜中に宿舎に戻っているはずなのに、約束の時間を十五分も過ぎているのだ。  圭が隠し持っていた腕時計で時間を確認しながら、苛立《いらだ》ってきているのが判った。  誰かが文句を言い出すかと思われた矢先に、思いがけない崖《がけ》の方から、作業着《ジヤンプ・スーツ》を着たクリスが歩いてきた。 「なにやってんだよ。遅刻だぜ、あんたが来なきゃ駄目だろうが」  小声でヒロが責めると、緊張感のないクリスの声が返ってきた。 「悪いな、昨日、あいつしつこくてさ。つい寝過ごした」 「この状態で寝てられるなんて、本気かよ」  ヒロは悪態を吐《つ》いたけれど、面白がるように、顔が笑っているのが秋生には判った。  予定より二十分遅れだったが、六人は管理棟へ近づき、建物の影に身をひそめた。  全員が、支給品の作業着を身につけ、浮き輪代わりに使う洗剤の空き容器を紐《ひも》で繋《つな》いだものと、武器を持っている。  目立つのは南の熊手《フオーク》で、ヒロは手製のパチンコ式弓矢、あとの二人が何を持っているのか判らなかったが、秋生も懐に忍ばせた二本のニードル・ナイフを握り直した。 「犬をどうする?」  今まで忘れていた犬のことを、海人が口にした。だが、忘れていたのは秋生だけだったのかも知れない。 「夜中に、ゴッドハンドを入れた肉を食わせておいたから、今ごろはラリってるだろ」  クリスはそう答えると、一人で管理棟の正面玄関に向かった。  管理棟の扉を開けさせるのが、彼の役目だったのだ。 「開けてくれ。四時に来いって言われたんだ…」  通信室に通じるインターコムを押し、クリスが低い声で言った。  管理棟の通信室には、交替で当直があり、仮眠をとっている。今夜、誰が当直なのかによって、殺す順が決まるのだ。  佐古田であれば、機を見て秋生が飛び出さなければならない。 「なんだ、クリスか? 聞いてないぞ」  寝ぼけぎみで、不機嫌な井藤《いとう》の声が聞こえた。 「昨日の夜、パパに言われたんだよ。朝にまた来いってさ」 「朝っぱらから、なにやろうってんで、所長はよ」  クリスがマイクに向かって声を落とした。 「内緒だぜ、パパは昨日、勃《た》たなかったのさ、だから、朝イチでやり直したいんだろう」  心の裡《なか》では仙北谷《せんぼくや》を嫌っている井藤が、面白がって笑う声が聞こえた。 「早く開けてよ、俺《おれ》だって迷惑してるんだぜ」  クツクツ笑う井藤の声が小さくなったと同時に、ほとんど無警戒に、男は管理棟の鉄製扉を開いた。 「また呼ぶなら、帰れなんて言わないで、泊めてくれればいいのにさ」  注意を逸《そ》らさせないようにクリスは話し続け、井藤が軽口で応じた。 「泊められるかよ、お前なんか狂犬だからな、寝首を掻《か》かれたらたまらんだろが」 「その心配は当たってるよ」  茂みに隠れていたヒロが飛び出すのと、クリスの上体が右に反れたのは、ほとんど同時だった。  ヒロの手から手製の矢が放たれ、井藤の喉《のど》を貫いた。  声も立てられず蹲《うずくま》った井藤に、さらにヒロは、一年かけて造りあげた矢を撃ち込んで、止めを刺した。  クリスは、倒れた井藤がズボンの後ろに挟んでいる拳銃《けんじゆう》を引きぬき、素早く検《あらた》めた。  その手つきには、愛撫《あいぶ》する仕種《しぐさ》があり、彼が、それらの武器に慣れていることを示しているかのようだ。  ナイフや弓矢といったものよりも完璧《かんぺき》な殺人兵器を手に入れたクリスに対し、誰も文句は言わなかった。  確実に使いこなせるのはクリスだけだと判っているのだ。  クリスの後に、音もなく集まった五人は、井藤を抱えて通信室に戻すと、管理棟の扉を閉め、内側から鍵《かぎ》を掛けた。  管理棟の中は暗く、廊下に灯《とも》された常夜灯《スモールライト》だけが頼りだったが、夜目に慣れた六人が、目的の部屋へ向かうには充分すぎる明るさだ。  すでにやり遂げたヒロは、通信室に残り、死体とともに不意の連絡が入った時のために待機することになった。  浮き輪を置いて、武器を確認し、五人は立ちあがった。  男たちは二階で眠っている。  それぞれの部屋の場所は判っていて、踏み込めばいいのだ。  圭は鳩屋を、南は西村、クリスは大木、秋生が佐古田で、海人《かいと》は、鍵の掛かった所長の部屋へ侵入し、殺さずに捕まえるのが役割だった。  男たちのドアの前に立った五人が、呼吸を合わせた。  惰眠をむさぼっていた男たちは、ドアが開いたことにも気づかずに、凶悪な侵入者の手に掛かって果てるはずだった。  だが、咄嗟《とつさ》に佐古田は眼をあけ、秋生を捉《とら》えた。  佐古田の目に睨《にら》まれた瞬間、秋生は、練習で身につけていたはずなのに、狙う場所を外した。  ナイフは、佐古田の喉を反れて頬《ほお》をかすめ、ざくりと耳を削《そ》いだのだ。 「この野郎ッ」  眠っていた人間とは思われない瞬発力で、佐古田は起きあがり、さらに突き立てようとした秋生の手首を掴《つか》んだ。  痛みで怒りが増した佐古田が、怪力を発揮し、そのまま二人で床に転がった。  秋生の身体《からだ》が、下に押さえつけられる。 「何のマネだ、てめぇ!」  佐古田のタバコ臭い息が、秋生を戦慄《せんりつ》させた。  犯された時の記憶が、秋生を怯《ひる》ませ、そのすきに、佐古田にナイフを奪われてしまったのだ。  秋生は、奪い取られたナイフが、自分の上へと振りかざされると同時に、懐に入れていたもう一本のナイフを取りだして、佐古田へと向けた。  二人とも無傷ではいられないと、秋生が死を覚悟した寸前、バンと乾いた音とともに、身体の上にいた佐古田が、後ろに吹き飛んだ。  入口から、クリスが発砲したのだ。  眉間《みけん》の真ん中を撃ちぬかれた佐古田は、脳が一瞬で死んだにも拘《かか》わらず、最後に、秋生に助けを求めるような眼を向けて、倒れた。 「下手くそ」  笑って言うクリスだが、眸《ひとみ》がぎらぎらと銀碧色《ブルー》に輝いているのが判った。  クリスの裡で眠らされていたもう一つの血、殺人者の血が目覚めているのだ。 「ナイフを取れ、柄のテープを剥《は》がして指紋を残さないようにするんだ」  急いで指示に従った秋生だが、手が慄《ふる》えた。  改めて、恐怖が足元からじわじわと這《は》い上ってきたのだ。  その冷たい感触が、身体を冷やしてゆき、心臓にたどり着く頃には、ショック死するのではないかと思ったほどだが、簡単に死にはしなかった。  死を追いやるように、いっそう激しく心臓が鼓動をはじめ、秋生は蘇生《そせい》した。 「すまない…俺が殺《や》らなければならなかったのに——…」 「誰かを殺すと、その後の人生をソイツに縛られることになる」  電灯を点《つ》け、部屋の様子を確かめながら、クリスが言った。 「だから大勢殺すようになるんだ。そいつ一人に縛られないために…」  秋生は、それでクリスが自分の代わりに佐古田を殺してくれたのかと思った。  最初から、秋生には決心することを要求してきたが、クリスは実行させるつもりはなかったのではないか?——と。 「俺は、またあんたに助けてもらったんだな」  感謝の言葉を口にしようとした秋生を、クリスは睨むことで止めさせた。 「気にするな、それに……」 「それに?」 「直に、お前は俺を嫌いになる。嫌なヤツだと思うようになるさ」  クリスが謎《なぞ》めいた微笑を浮かべた。  ドアが蹴飛《けと》ばされた音で振り返ると、海人が、後ろ手に縛りあげ、猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませた仙北谷を連れていた。 「終わったか?」  部屋の惨状を見た仙北谷は、眼球が飛び出さんばかりに驚いている。彼の心臓が止まってしまわないうちに、クリスが電灯を消して、部屋を暗くした。 「ああ、終わった。他は?」 「下へ行ってみようぜ」  縛りあげた仙北谷を引きずって海人が歩き出したので、クリスと秋生も従った。  通信室のヒロの所へ行く前に、自動的にセットされている灯台の光が消え、同時に管理棟中の常夜灯《スモールライト》も消えたので、あたりが真っ暗になった。  まだ夜は明けていないのだ。 「全員を殺したか?」  圭もすでに通信室にきていたが、クリスの姿を見るなり、緊迫した声で言った。 「南がしくじった。西村がどこかに隠れているはずだ」 「ごめんなさい…、逃げられたんだ。あいつ、ライフル持ってたし……」  熊手《フオーク》の南には太刀打ちできなかったのだ。 「かたまっているとまずいな、電気をつけるなよ」  海人が、連れていた所長を床に押し倒し、その身体の上に腰を下ろした。 「身を伏せて動くなよ。息もするな」  次にクリスはそう言うと、井藤から奪った拳銃を片手に、通信室のドアの影に立ち、自分も息を止めた。  仙北谷すら息を止めているのではないかと思われる静寂のなか、クリスは何かの波動を感じ取ろうとしているかのようだった。  何か…とは、西村から放たれてくる恐怖の波動なのだろう。  やがて、瞑想《めいそう》するかのように立っていたクリスは、足音を忍ばせ、夜明け前の暗闇に包まれた廊下に出て行った。  待つ方には長い時間に感じられるが、数分の後、建物の中に一発の発砲音がこだました。  直《す》ぐにクリスが戻ってきた。 「殺したの?」  あっさりと南が訊《き》いた。 「階段のところにいるから、ここへ引っぱってこい、それくらい出来るだろう?」 「うん」  懐中電灯を持って、南が行こうとすると、相棒のヒロも一緒に立ちあがった。  引きずられてきた西村は、一発で眉間を撃ち抜かれ、死んでいた。 「真っ暗だったのに、何でこんなに正確に殺《や》れるんだよ」  感嘆した口調でヒロが言うのに、クリスはいつものうっすらとした笑いで応《こた》えただけだ。  西村を、先客である井藤の横に並べてしまうと、頬を紅潮させた南が、クリスに礼を言った。 「ありがと、クリス。このお礼は必ずするね」 「気にするな……」  海人に押さえられた所長は、悪魔を見るようにクリスを見ている。可愛《かわい》がっていたペットの猫が、極めて獰猛《どうもう》な殺戮《さつりく》を行う獣の子だったと知ったのだ。  いまや管理棟の中は、流れた大量の血が、時間を経て変化し、鉄錆《てつさび》のような臭いとなり、充満していた。 「さて、今度は、パパをどうするかだな?」  所長が、だぼだぼの肉を震わせ、猿轡の下から呻《うめ》きだした。  管理棟の中に暖房用の灯油を撒《ま》きおわると、それぞれが、着ていた作業着を脱いでまとめ、残った灯油をかけた。  次に、身体に付いた血や、汚れを洗い落としてから、脱出用のラフな服に着替え、さらに海人と圭は教官の迷彩服を上に着た。  すでに夜が明け、ヘリが到着する九時まで、一時間を切っている。  宿舎の方では、六人がいなくなった異変に気がついていないのか、それとも誰も気にならないのか、不気味なほど静かだ。  明るくなってから管理棟の中を捜索した結果、地図と四十万ほどの現金が見つかり、六人で平等に分けた。  八時三十分に、ヘリから通信が入った。  床に倒れていた所長が、いきなり顔を上げ、呻きだしたが、すかさず海人の蹴りが入った。 『予定通り、あと三十分後に着く』 「了解、了解、こっちは犬どもが逃げてばたついとるが、異状なしだ」  ヒロが、井藤を真似て答えた。 『犬が逃げた? ほっとけよ、どうせ島から出られないだろうに』 「知らん人間を見ると噛みつくんだぜ、おおっと、そちらぁ何人だ?」 『副操縦士と二人だけだ。ガキはいないぜ…』  別の声が割り込んできた。 『所長はまだ寝てるのか?』  副操縦士の声だろうと見当をつけて、ヒロがまた巧みに対応した。 「シッ、こっち来るところだ、切るぜ」  通信を切ったヒロが、肩が凝ったとでも言いたげに首を左右に動かしてから、見守っていた秋生と南に親指を立てて見せた。  到着の五分前に、ふたたびヘリから連絡が入った。  いよいよ、ヘリを乗っ取る時間が来たのだ。  誘導には迷彩服を着た海人と圭が出て、積み荷用のゴッドハンドを納めた倉庫に、クリスが身を隠した。  ヘリが到着する度に荷物の積み降ろしに駆り出されているので、誘導の仕方は判っている。  巧みな誘導でヘリが着地し、中から副操縦士が降りて、彼等の挨拶《あいさつ》である軍隊式の敬礼を執った瞬間だった。  倉庫から飛び出したクリスが、一撃で副操縦士を射殺した。  操縦士《パイロツト》が異変に対処する前に、クリスは開いたドアからヘリに飛び込み、拳銃《けんじゆう》を突きつけていた。  一陣の突風のようにすべてが行われた。  待機していた秋生たちも、縛りあげた仙北谷を走らせ、ヘリポートに向かった。 「離陸させろ、ヘタな真似はするなよ」  副操縦席に滑り込んだ圭が、すかさず、ヘリの通信装置をオフに切り替え、鳩屋から奪っていた拳銃をパイロットに突きつけた。  無事に全員がヘリに乗り込むと、人質として生かしていた仙北谷が邪魔になった。  誰が言うともなく、結論は出ていた。  クリスが、すっと腕をあげ、走って逃げようとした仙北谷の頭を、後ろから撃ち抜き、終わらせた。 「早く離陸しろッ」  圭がパイロットを脅し、急がせた。  奥にヒロが乗り、隣に南、海人がドア近くに座って、秋生はパイロットの真後ろの席に座った。  回転翼が完全に止まっていなかったヘリは、直ぐに離陸態勢に入り、スライド式のドア《スライデイングドア》が閉まる前に、浮上し、垂直上昇をはじめた。  ドアを開けたまま立ったクリスの身体に海人が腕を回し、落ちないように支えた。  その体勢で、クリスは管理棟へと通じる舗装道路に置いた灯油の容器に狙《ねら》いを定め、三発続けざまに撃ち込んだ。  一気に燃えあがった灯油は、次には一本の火の道となって管理棟へ進んで行き、火を噴きあげた。 「ガソリンだったら、もっと景気がいいのにな」  ヒロがうっとりしたように言った。  ドアを閉めたクリスは、秋生に場所を変わるよう手で合図すると、パイロットの真後ろに移動してきた。  クリスは、操縦席のパイロットに、後ろから縫い合わせたタオルの猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませ、座席の頭枕《ベツドレスト》に縛りつけると、さらにニードル・ナイフを押しあてた。  脇腹《わきばら》には拳銃、首筋にはニードル・ナイフを突きつけられたパイロットの緊張が伝わってくる。  秋生は、まだこれからが正念場と判っていたが、ヘリが島を離れただけで、地獄から助けられた気持ちになり、胸が熱くなった。  置いていく仲間を偲《しの》ぶのは、自分が完全に助かってからだとも思ったが、つい、後ろを振り返り、遠ざかっていく島の、宿舎の方を見た。  宿舎の窓から、火の手があがっていた。  燃えているのは、火をつけた管理棟だけでなく、宿舎にも火災が起きているのだ。  ハッとなり、秋生はクリスを見た。 「あの時——…」  言いかけたが、口を噤《つぐ》んだ。秋生の声は、ローター・ブレードの騒音にかき消され、誰も聞こえなかったようだ。  管理棟を襲う前、時間に遅れたクリスは、その間に、宿舎に残った全員を殺してきたのだ。 そうでなければ、六人も姿を見せない朝の異状さを、寮生たちよりも、李が放っておくはずがなかった。  島の静けさは、死に絶えた静けさだったのだ。  そうして、数時間後に火災が起きるように細工してきたに違いない。  秋生の視線に気がついたクリスは流し目を向けてきたが、次には、まるで知らない人を見たかのように無視した。  脱出計画を実行に移した時から、それ以前に、加わると決心した時から、誰かを殺さずには成功しないのは判っていたのだ。  そして、一人が一人を殺す。  必ずしも実行されたわけではなかったが、その覚悟を要求され、決心した者だけが逃げる資格を得ることができた。  決心しなければ、秋生は今ごろ、宿舎で燃えていただろう……。 「直にお前は、俺《おれ》を嫌いになる」  クリスの言葉が、秋生の裡《なか》に甦ってきた。 「———だ、早く着ろ、降りなきゃならないんだぜ、おい、秋生ッ」  ヒロの声で、秋生は慌ててヘリに装備されたライフジャケットを着ると、さらに空き容器の浮き輪を身体に巻きつけた。洗剤の容器の中には、陸についてから着替えるためのTシャツが、濡《ぬ》れないように押し込んである。  計画では、陸地が見えた時点で、陸に沿ってヘリを低空飛行させ、順に飛び降りて泳ぐことになっている。  一度に全員が陸にたどり着くのは目立ちすぎるために、圭は空中解散と言っていた。  最初に降りるのは、計画者である圭と、秋生だった。  陸が見えてきたのは、十一時になってからで、前方に、岩場の続く浜を見つけると、圭はその場所を選んだ。  圭は、パイロットへの脅しをクリスに委《まか》せると、準備に入った。  秋生も声を掛けられ、緊張が増した。 「行くぞ!」  だが、いざヘリが海面すれすれの低空飛行を維持し、ドアが開かれた時、圭は飛び降りたのに、気後れした秋生は、切っ掛けを失った。  由樹也が、崖《がけ》から落ちた時の光景が、目の前に広がったのだ。  浜に向かって泳ぎだした圭の姿が、遠ざかっていく。 「馬鹿、なにしてんだ」  ドアを開けてくれた海人に怒鳴られたが、秋生は眩暈《めまい》を感じたように目許《めもと》を押さえた。 「急に恐くなった」 「いいじゃない。次に一緒に降りよう。僕が引っぱってあげるよ」  南が声を掛けてきた。  彼とヒロは一緒に飛び降りることになっていて、すでに準備が整っている。最後にクリスと海人が、パイロットを始末して降りるのだ。  秋生は頷《うなず》き、今度こそはと覚悟を決めたのだ。  二人の上陸地点はヒロが指定した。近くに浜はなかったが、波よけに積まれたテトラポッドが見えたのだ。  波よけは、近くに漁場か、海水浴場があることを意味している場合が多い。ヘリから飛び降りるところを見られないためにも、一旦テトラポッドまで泳ぎ、そこから陸を目指した方が賢明とヒロは判断したのだ。  脅されたパイロットが低空飛行に切り替えると、先にヒロが降りた。 「じゃあな」  続いて南が、秋生を振り返り腕を伸ばしたのだが、彼が掴《つか》んだのは海人だった。 「秋生、バイバーイ」  あっという間に、油断していた海人の身体がヘリから飛び出し、南と一緒に海へと落ちていった。 「みなみ! あいつ、なに考えてんだ」  クリスが呻《うめ》いた。  またも、秋生は出遅れてしまったことになるが、南は、わざと海人を連れて降りたのだ。  クリスを好きな秋生のために——。  ヘリコプターは、ドアを開けたまま、次の場所を探して、ふたたび高度をあげた。  秋生はクリスと二人きりにされてしまったのだ。  実際にはパイロットもいたのだが、彼は間もなく死ぬ人間であり、すでに秋生の裡で、彼は人数に加えられない存在になっている。  すると、恐ろしいばかりの不安と同時に、顫《ふる》えるような陶酔感をおぼえた。 「低空飛行しろ」  いよいよ瞬間が近づいたのか、クリスがパイロットに指示を出した。 「あんたはそのまま飛んで行っていいぜ、ご苦労だったな」  パイロットの身体《からだ》をクリスが撫《な》でまわすのを秋生は見たが、意味するところを読みとれなかった。  ヘリの高度が下がっていく。ヘリコプターは空中静止と低速飛行が可能な航空機だ。  クリスは、まだパイロットにニードル・ナイフを突きつけた格好で、秋生に怒鳴った。 「降りろ! 俺も直《す》ぐに行くッ」  言われた瞬間、秋生は一気にドアから外へ飛び出し、身体を海に向けて降下させた。  数秒後、海面に叩《たた》きつけられた秋生の身体は、いったんは海に沈み、身体中に痛みをともなって浮かびあがった。  必死で周りを見ると、二十メートルほど離れたところにクリスの姿があった。  彼も無事に飛び降りたのだ。  だが、空へと視線をあげた時に、まっすぐに遠ざかっていたヘリコプターが、いきなり操縦不能を起こした様子で、頭から海へと突っ込むように墜落した。 「早く、泳げよ」  海に落ちて、爆発炎上したヘリをぼうっと見ていた秋生に、泳いで近づいてきたクリスが声をかけた。  新幹線で東京駅に着いたのは、まだ午後六時をまわった時刻だった。  原始的な島から、いきなり大都会に戻ったのだ。  あの後、上陸した浜で、洗剤容器から引っ張り出したTシャツに着替え、ジーンズをしぼった二人は、海にヘリが落ちたのに気がつき、人々が集まって来る前に、人家のある方へ向かった。  それから、駅を探し、最初に来た電車に乗ったのだ。  途中の大きい駅で降りると、駅ビルに入っている店で着替えを買い、濡れたものをすべて取り替えてから、今度は新幹線で東京を目指した。  別れたヒロたちは北海道へ向かい、圭も一時的に東北方面に潜伏する予定だとクリスは言ったが、秋生は、駅に着くたびに彼らと会うかも知れないと思い、つい、探してしまった。  だが、誰とも会うこともなく、また、海上にヘリが墜落したニュースも伝わっていない様子だった。  個人所有の島で建物が燃えたことなどは、誰も知らないうちに処理されてしまうのかも知れない。  秋生は新幹線に乗っている間中、これからのことを考え、クリスは新聞を読んでいた。  やがて、新幹線を降り、帰宅途中のサラリーマンや、OL、学生、旅行者などを大量に吐き出す八重洲《やえす》中央口の改札を出た二人は、ホームレスがたむろするあたりまで歩いた。  そして、直ぐに誰かが拾って、有効に使ってくれるだろうと見越して、濡れた衣類をゴミ箱に押し込み、島での記憶を終わらせることにした。 「久しぶりに戻ると、なんだか、この街って臭かったんだな…」  都市の臭いを嗅《か》ぐように顔を仰《あお》のかせたクリスは、だが、満足そうだった。 「これからどうする?」  そう訊《き》いた秋生に、クリスは上向かせていた顔を向け、視線を定めた。 「じゃあな、元気でな」  いきなり別れの言葉がクリスから出たのに、秋生は慌て、彼を逃がすまいと、腕を掴んでいた。 「待てよ、どこ行くんだ?」  うっすらと口唇の端を持ちあげる、いつもの笑い方でクリスは微笑《ほほえ》んだ。 「解散だよ。俺たちも……」 「待てよ、待ってくれ。俺と一緒に行かないのか?」 「俺は行くところがある」  クリスの返事に秋生は気色《けしき》ばんだ。 「海人と待ち合わせしてるのか?」 「いや、南のせいで、あいつがどこにいるのかも判らない。けれど、待っていれば必ず、あいつは俺を捜し出してやってくるだろうよ」 「だったら、どこへ行こうってんだ? 俺と行こうぜ」  手を放したらクリスが逃げてしまいそうな気がして、秋生は彼の腕を掴んだまま、人気のないロッカーの方へ引っぱって行った。  素直についてきたクリスだが、秋生に触られているのを嫌がっている様子があった。 「もう一度言うぜ、俺と一緒に暮らさないか?」  執拗《しつよう》な秋生を、クリスは碧《あお》い眸《ひとみ》で睨《にら》んだ。 「俺が、島で何をしてきたのか、知らないのか?」  すかさず秋生は頭《かぶり》を振って、否定した。 「聞きたくない! 知りたくない! でも俺は知ってる」  秋生はクリスが何者なのか、どれほどのことが出来るのか、知ってしまった。それでも、もうとっくに、心を奪われている。 「最後に、ヘリのパイロットに何をしたのか知らないはずないよな? それでも、俺と一緒にいたいのか? 暮らしたいって言うのか?」  頷いた秋生を、クリスの方は呆《あき》れたように見た。 「邪魔になったら、殺すぞ」 「それでもいいよ」  心と身体が切ないほどクリスを求めている。このまま放っておかれたら、——彼を失ったら、病気になってしまいそうだとすら思った。 「お前は、バカじゃないのか?」  秋生が掴んでいる腕を、クリスは乱暴にふり解《ほど》こうとしたが、秋生は決して、放さなかった。 「かもな。でも、あんたは俺の代わりに佐古田を殺してくれた。南の時も助けに来てくれた。色んな時に、俺を助けてくれたじゃないか、今度は、俺があんたを助けたいんだ」  形の良いクリスの眉《まゆ》が、怒りにつりあがったように見えた。 「俺は、今までだって誰かに助けてもらったことなんかないからな、 これからも必要ないんだ」  突っぱねたクリスに対して、秋生は口調をやわらげ、今度は懇願するように言った。 「助けるってのは当たらないかも知れない。普通の生活を教えてやるよ。普通に、人間らしく生きるんだ。働いて、遊んで、誰かを好きになって……それが俺だったら、絶対いいけどな」  まだクリスは抵抗した。 「海人が来るぜ、俺を捜し出して」 「そうしたら、海人と闘うよ。あんたを奪われないために」 「お前が、あいつに勝てるわけがないだろう」  空いている方の手で、クリスは秋生の胸を打った。どこか親しみのある動作だった。 「……けど、俺は、宿舎で奴《やつ》らを殺した時、お前のことを考えてた」 「聞きたくないって言っただろう。知りたくないんだ」 「知れよ、それも、俺なんだ。俺の一部なんだ」  秋生は黙った。表も裏も、知ってなお、クリスが好きだと気がついていたからだ。 「誰かを殺す時に、別のこと考えてるなんて初めてだ。俺も足の洗い時かも知れないな」  クリスははっきりとした言葉ではなかったが、秋生と行くと認めた。 「ありがとう」 「その言葉、やめろよ、聞き慣れないから気持ち悪いぜ」 「そう言うなよ、嬉《うれ》しくて、キスしたい気分だ」  クリスが碧い双眸《そうぼう》を瞠《みひら》いた。 「やめてくれ、体裁が悪いだろう」  いかに人通りが少ないとはいえ、無人ではないのだ。クリスらしくない言葉に、秋生はやっと緊張が解けて、笑った。 「あんたらしくないな、体裁が気になるなんて…」 「郷に入っては郷に従えって言葉を知らないのか? こんな所で男同士でキスしてたら、変に思われるだろう」 「難しい言葉知ってるんだな、学校に行ったことないって言ってなかったか?」 「俺は、家出してウリになる前は、高級な男娼だったんだぜ」  殺し屋でもあったことは省き、クリスは笑いながら、気楽な調子で言った。 「高く売るには、美貌とテクニックと、教養がいるんだとかで、父親に家庭教師を付けられてたのさ…」  クリスは、自分の父親を話題にする時、いつも「父親」と、他人行儀な物の言い方をする。せめても、「あのクソ親父」とでも言うのならば、父親に対する思慕の一片でも読みとれるのだが、そんなことはなかった。 「クリス、足を洗う前に、最後にひとつだけ俺《おれ》の計画に付き合ってもらえるか?」  父親に関して、秋生には計画があった。 「なんだ?」 「今しかできないんだ。島やヘリのことが表立ったら警戒されるかも知れないからな、その前に、俺をあそこに送り込んだ義父から、慰謝料をもらうのさ」 「お前は、落とし前をつけにいくのか」  納得したクリスは、面白がって笑い声をあげた。 「これから行くのなら、その前にもっとまともな服に着替えていかないとならないな」 「金はもう、二万くらいしかないぜ」  下着や服に、靴、それから新幹線のキップなどに使ってしまっていた。 「心配するな」  そう言ったクリスは、ジーンズのポケットから、剥《む》きだしの一万円札を二十数枚取りだして、見せた。 「ヘリのパイロットから貰《もら》ったんだ。これで、服を買って、身綺麗《みぎれい》にしてから乗り込もうぜ。ついでに、サウナにも入っていくか?」  駅構内にある東京温泉の看板が見えていた。  瀟洒《しようしや》な邸宅が建ち並ぶ一角に、広い芝生の庭を持った篠原邸はある。  二人は、午後八時になるのを見計らって、篠原邸へ行き、門柱にとりつけられたインターホンを押した。 「はい?」  母の貴美子が出た。 「母さん? 秋生だけど…」  声を聞くなり、向こうで息を呑《の》んだのが判った。  秋生は、追い払われるのかと思ったが、直《す》ぐに玄関の扉が開き、スリッパのままで飛び出してきた母を見ることになった。 「この子はッ、今までどこに行っていたのよッ!」  ヒステリックな叫び声が、貴美子の腕と同時にあがり、秋生は母から思い切り頬《ほお》を打《ぶ》たれ、唖然《あぜん》となった。 「心配させて、お母さんを心配させてッ、お前って子はッ」  貴美子の顔が歪《ゆが》んで、涙が溢《あふ》れている。  母は、自分の人生から秋生という存在を切り捨てたのではなかった。  何も知らなかったのだ。 「ご…めん、俺…は——…」  秋生が少年院に入っていたこと、島に送られたことを、義父の篠原清司郎は徹底的に隠したのだ。  篠原は、富樫秋生という存在を、この世から抹殺してしまうつもりだったのだ。 「家に入って、話はなかで聞くから。天良《たから》もいるのよ、半年前に、あんたの弟が産まれたのよ」  興奮が治まってきた貴美子は、ようやく、秋生の後ろに立っているクリスに眼を向け、今までとは違う戸惑いをみせた。  濃紺の背広にネクタイを締めた秋生は、新人の会社員のようだったが、オフホワイトのスーツを着ているクリスは、綺麗な顔立ちと、長めの髪もあって、男装の麗人にしか見えない。 「お友だち?」 「クリス…って言うんだ」  秋生が、クリスの名字を言えずに口ごもったところへ、素早く、当のクリスが前に出て、貴美子に挨拶《あいさつ》をした。 「初めまして、比良坂《ひらさか》クリスです。秋生くんにはお世話になっています」  思いがけない美青年の出現に、貴美子は困惑したように秋生を見たが、精一杯に微笑《ほほえ》んでクリスをも迎えた。 「二人とも入って、晩ご飯は食べたの?」 「食ったけど、お義父《とう》さんは?」 「お風呂《ふろ》に入ってるわよ。毎日、会社から早く帰ってきて、天良をお風呂に入れてくれるの。信じられないくらい、子煩悩なのよ」  その清司郎が義理の息子に対して何をしたのか、貴美子はまったく知らないのだ。  知らないのならば知らせてやろうと思った時もあったが、その考えを、秋生は棄てることにした。  現在の母は、幸せだと感じたからだ。  最初の結婚で秋生を産んだのは、貴美子が十九歳の時だった。  夫と死別した後、貴美子は看護婦の資格を取って秋生を育てて来たが、三年前、入院してきた篠原に見初められ、後妻に入ったのだ。  秋生が高校生になり、大学へあげてやりたいと思う親心と、当時、まだ三十四という若さが、彼女に決心させた。  篠原清司郎は、いくつもの会社を経営する羽振りの良い男だったが、結婚と離婚を繰り返し、五十代後半になっても実子に恵まれていなかった。  女性を妊娠させるには、篠原の方に問題があり、双方の努力が必要だったのだ。  結局、何度目かの再婚で一緒になった貴美子にだけ、子供が産まれた。  もっとも、結婚してから三年以上経ってようやく授かったのだから、その間の努力は並々ならないものがあっただろう。忍耐強い貴美子だから出来たのだ。  苦労の末に授かった子供は、二人にとっては掛け替えのない存在となっているはずだ。  仕事を早めに切りあげ、帰宅して風呂に入れるくらいの溺愛《できあい》も、天良と名付けた気持ちも、よく判った。  判ったからこそ、秋生は、今度の計画には利用させてもらうことにした。  家政婦が、入浴の終わった天良を抱いて、家族用のリビングに入ってきた。  初老の家政婦は、リビングにいる見知らぬ二人を見て少しばかり驚いた様子だったが、誰なのかまでは詮索《せんさく》せずに、赤ん坊を貴美子に渡し、飲み物が入った哺乳瓶《ほにゆうびん》を取ってきた。 「息子なのよ、それから、息子のお友だち。高野さん、今日はもうあがっていいわ。気をつけて帰ってね」  簡単に貴美子は二人を説明してから、通いの家政婦である高野に帰宅していいと言った。  まるまると肥った男の子は、哺乳瓶を銜《くわ》えながら、興味津々といった目で、秋生とクリスを追いかけてくる。円《つぶ》らな瞳が可愛《かわい》らしかった。 「俺、お義父さんに話があるから、行ってきていいかな?」  家政婦が知らせてしまう前に、秋生は自分から篠原に会い、彼を驚かせ、あるいは恐怖させたいと思い、立ちあがった。 「お父さんも驚くわね」  疑いもなく頷《うなず》いた貴美子とクリスを残して、秋生はリビングを出た。  風呂から上がった篠原は、近づいてくる足音を家政婦と勘違いして、脱衣所から声を掛けてきた。 「天良の尻《しり》が、かぶれてたぞ、オムツかぶれじゃないのか?」 「それくらいじゃ死なないよ」  答えるなり、秋生はドアを開けた。 「ど、どうして……」  目を剥いた篠原の顔を、クリスに見せてやりたかった。 「お久しぶりです。お義父さん。地獄みたいな島から戻ってきました」 「お前——」 「書斎に行きましょうか? ここで話すのもなんですから…」  驚愕《きようがく》に言葉を失った篠原を、秋生が支えるようにして、彼の書斎へと連れて行った。 「何しに戻ってきた?」  秋生を見た瞬間、現在の幸せが脅かされるのではないかという不安に、篠原は取り憑《つ》かれてしまったようだ。  その心情を利用して、秋生が単刀直入に要求を突きつけた。 「五千万円現金で用意してもらえますか? そうしたら、俺は二度とお義父さんの前には顔を出さないし、俺を島に送ったことも黙っています」 「五…千万だと! 馬鹿なこと言うな、なにを言ってるんだ、いったい、何の話だ」  要領を得ない言葉ばかりを繰り返す篠原に、秋生も容赦しなかった。 「天良って、可愛いですね、お義父さん…」  秋生は、島に送られたせいでか、自分の裡《なか》に、いままで存在しなかった種類の強さが育っているのを感じながら言った。 「た、天良になにをした?」 「何もしないけど、異父弟《おとうと》が産まれたんなら、時々遊びに来ようかな、…それと、母さんは俺が少年院に入ってたことも、島に送られて、殺される予定だったのも、知らないんだよね。知ったら、どうなるだろう……」 「殺されるってどういう意味だ?」  口の端から泡を飛ばして叫ぶ篠原の狼狽《うろた》え方が、秋生には面白く感じられた。 「やだな、今さら惚《とぼ》けるなんて」 「い、一千万なら用意できる。いまも家の金庫に入ってる。それで、忘れてくれ」  惚けるのをやめ、篠原は提案したが、秋生は退けた。 「会社の金庫にはもっと入ってるの知ってますよ。以前《まえ》に、税金逃れに現金を隠してるとか、自慢してたじゃないですか」 「それは景気のいい頃の話だ。今はどこも大変なんだ、会社の株も横這《よこば》いであがらんしな、赤倉の別荘も手放そうかと思ってるくらいで…」  秋生は篠原の言い訳をまったく無視した。 「真壁さんに電話して持ってきてもらってくださいよ。俺も、あの人にお礼を言いたいと思ってるから」 「脅すのか、親を!」 「誰が親なんですか? 俺は富樫秋生っていいます。篠原さんは、母の夫ですが、俺の親とは言えないでしょう?」  慇懃《いんぎん》無礼な口調で秋生が篠原を煽《あお》っていく。そこへタイミングよく、ドアがノックされ、飲み物を用意した貴美子が入ってきた。 「あなた、あんまり秋生を叱《しか》らないでくださいね。家出してたのだって、理由があるはずなんですから」  貴美子は、篠原が秋生の家出を叱っているのかと思っている。  答えられない篠原の前に、貴美子は紅茶を置き、それから秋生の前に置いて、ドアの方を振り返った。 「天良ったら、すっかりクリスさんに懐いちゃったのよ。ほら、だっこされても泣かないんだから」  ドアの所に、天良を抱いたクリスが立っていた。  秋生には、クリスが浮かべている氷のような微笑が見える。  冷えやかで、骨の髄まで凍ってしまいそうな笑みに、篠原も気がついたようだった。  心の奥に闇《やみ》を抱えた人間たちは、お互いの放つ負の波動に感応しあうのだ。  そうして、どちらが上位の獣であるのかを察する。  クリスの際だった美貌は、篠原を畏《おそ》れ戦《おのの》かせるにも充分だった。 「こっちへ来なさい。私が抱こう」  篠原は、天良を取り返そうと両手を出したが、その不機嫌な声が赤ん坊をむずからせた。 「あらあら、パパに人見知りしてるわ」  貴美子が思いがけない赤ん坊の反応を、むしろ楽しむように笑っている。 「母さん、まだお義父さんと話が終わってないから、向こうに行っててくれないか、あ、クリスは一緒にいてくれ、天良も、一人だと勇気が出ないからな」  態《わざ》とらしく秋生は言った。 「判ったけど、二人とも喧嘩《けんか》したりしないでね」  息子に追い払われようとしているにも拘《かか》わらず、貴美子の方は物わかりよく頷くと、出て行ってしまった。  篠原にとっても、秋生が何を言いだすのか判らない今、貴美子にいられたくはなかっただろう。  そして、天良という人質を抱いたクリスが加わった『取り引き』は、十分後には篠原が折れ、秋生の要求を呑《の》んだ。  真壁に電話を入れ、会社の金庫から金を持ってこさせるまでに一時間半が掛かった。  その間に、天良は眠ってしまい、貴美子が寝室へ連れていったので、大金を持った真壁が来た時には、誰にも邪魔されずに話が出来る状態になっていた。  むろん、真壁も、戻ってきた秋生に驚き、青ざめた。 「富樫秋生くん、あなたは私たちを脅迫するつもりなんですか」  驚きが去り、今度は怒りに変わった真壁を、クリスが睨《ね》めつけた。 「あんたが真壁さんか、なんだよ、冴《さ》えないオヤジじゃないか」  秋生が『お話係』だった時に、真壁の話をしたことがあるのだ。 「いま、あんたの考えてることが判るぜ。俺たちを、仲介者か農場に知らせるつもりになってるだろう? そして俺たちを始末させようって考えてる…。けどな、そうなれば、あんたたちも無事じゃすまされないぜ。あの島の秘密を知ってる俺たちを逃がしたのは、あんたたちだとチクッてやるからな」 「島の秘密?」  そこまでは知らない真壁が、怪訝《けげん》な顔になった。  真壁は、非合法な組織があり、そこに依頼することで一人の人間を葬れるとだけしか知らなかったのだ。 「あんたが渡りをつけた所は、日本で一番でかい暴力団の春日《かすが》組が、傘下の組に命じてゴッドハンドって麻薬を栽培してる農場《ところ》だったのさ」  横から秋生が繰り返した。 「ゴッドハンドだ」  手を身体《からだ》の前に付きだしたクリスは、拳《こぶし》を握って、ゴッドハンドの形を作って見せた。 「言《うた》えよッ、二人とも、ゴッドハンドと言ってみろ!」  いきなり甲高く叫んだクリスに、二人はビクッと戦《おのの》き、さらには、脅されるがままに、ゴッドハンドの名前を口にした。  これでもう、篠原も真壁も、何も知らない人間ではなくなってしまった。 「もうずっと、その名前は忘れられないぜ、忘れなきゃならないのにな」  共犯者にすることで、クリスは彼等を呪縛《じゆばく》した。 「五千万で、命と、安全が買えてよかったな」  引きあげる潮時だった。  五千万円分の札束が入ったボストンバッグを持って、秋生は立ちあがり、クリスも従ったが、彼は、ドアを出るまでの間、篠原と真壁には背を向けずに、後退《あとずさ》って歩いた。  最後まで、眼で、脅したのだ。  リビングでは、貴美子が待っていた。  秋生が戻ってきた嬉《うれ》しさが、今は心配に変わっている。篠原と喧嘩したのだろうか、なぜ、真壁が来ているのだろうか、彼女は何も知らないのだ。  だが、彼女なりに、秋生を理解しようとしていた。  息子が家出してしまった原因が、自分にあるのだとクリスに聞かされ、彼女は信じてしまったのだ。  綺麗《きれい》な貌《かお》のクリスは、それだけで説得力があった。 「彼と暮らすのね?」  泊まらずに行く秋生を追って玄関から出てきた貴美子は、離れた所に立っているクリスを見て、言った。 「最初は女の子かもと思ったけど、男の子だったのね」 「驚いた?」 「それはね、驚くわよ。なんて言うの? あなたが、ゲイだったなんて、思わなかったから…、なにが原因なのかしらね、前に、胎児の時の母親のストレスが原因でそういう…ことになるって説は読んだことあるけど、お母さんのせいかしらね」  秋生は、貴美子を悲しませないように、自分を責めさせないように、頭《かぶり》を振った。 「俺《おれ》も最初、女だと思って好きになったら、男だったんだよ。判っても気持ちは変わらなかったから、あいつと暮らしたいんだ」  これくらいの嘘《うそ》は、いいだろうと思った。  クリスが聞いたら怒るかも知れないが、聞こえるほど近くにはいなかった。それに、クリスの過去を知っても、秋生の気持ちは変わらなかったのだから、間違ってはいないのだ。 「どこで暮らすの?」  貴美子は、また秋生が遠くへ離れてしまうのではないかと心配している。 「俺たちだけだとアパートも借りられないから、母さんが保証人になってくれるかな?」  安心させるように、秋生は言った。 「もちろんよ。お金はあるの? 母さん、少しくらいなら貯金もあるのよ」 「大丈夫。それより、お義父さんには内緒にしててくれるか?」  貴美子は大きく、何度も頷《うなず》いた。 「あの人には、理解できないと思うし、怒るでしょうから、なにも言わないわよ。住む所を決めたら電話して、保証人になるから。昼間なら、私か家政婦さんしかいないから」  貴美子が手を握ってきたので、秋生も応《こた》えて握り返した。 「また、電話する」  しんと静まりかえった家の、どこかの窓から、篠原が覗《のぞ》いているだろうことを意識して、わざと秋生は大声で言った。 「天良によろしくな、母さん!」 「すっきりしたか?」  走ってきた秋生に、クリスが悪戯《いたずら》っぽくウィンクした。  タクシーを拾い、二人は篠原邸へ乗り込む前にチェックインしておいたホテルに戻ると、ようやく気分だけでも落ち着いた。  まだ島を出てから二十四時間も経っていないのに、もう、最後に見た炎の記憶は何年も前のことのように思われる。  普通の人間ならば一生かかっても経験しないだろう一日だった。  上着を脱いだ秋生が、すこしくつろいだ気分になっていたところに、いきなりクリスが言った。 「これから二時間ほど出かけてくる」 「どこへ行く気だ? もう晩《おそ》いのに…」  二十三時を過ぎている。秋生はもしかしたらと思い当たった。 「海人と逢うんなら、俺も行くぜ」  クリスは壁により掛かると、ベッドに腰掛けている秋生へ視線を移して、笑った。 「俺は、父親に会いに行くんだ。海人じゃない」 「会いに行ってどうするんだ?」  新たな不安が秋生の裡を衝きあげてきた。 「殺すんだよ」  事も無げに言ったクリスに、秋生は鋭く反応した。 「親殺しはだめだ。それに、もう誰も殺すなッ」 「俺に命令するのか」  鞭《むち》のように鋭い声がクリスから放たれた。 「そうだ! それに、足の洗い時だって言ったのは、あんただぜ、クリス」 「お前もけじめをつけたからな、俺も落とし前をつけなきゃな」 「俺の所為《せい》なのか?」 「違う。最初から、考えてたことだ。俺を島に送る切っ掛けを作ったのはあいつなんだ。もし、俺たちが戻っていることが判って、俺を売った奴らにそんな話をしてみろ、いずれ、あいつ等を殺して島を燃やしてきたのもばれるだろうよ、俺たちの身も危険になるんだぜ」  秋生にも、その通りだと思われた。篠原や真壁は決して言わないだろうという確信は持てたが、クリスの父親のことは、判らないのだ。  だが、これ以上、クリスに人殺しをさせる訳にはいかなかった。 「でもッ、親父さんはクリスが島に送られたとは思ってないんだろう? あんたは前に、島のことなんか知らないだろうって言ってたよな?」 「知らないだろよ、島を作ったやつらが、そんなに簡単に島の秘密がばれるような話をするはずないからな、あいつは、俺がどこかの変態男に囲われて暮らしてるとでも思ってるだろうよ」  裏社会と関係のあるクリスの父親だが、さすがに極秘の島の存在までは知らずに息子を売ったのだ。 「だったら、親父さんに会わないように気をつければいいんだ。東京を出てもいいぜ、別の都市《まち》に行ってもいい。だから、絶対に親殺しは駄目だ」 「お前に俺が止められるか?」  クリスの言葉に、秋生はいまだかつてない怒りを発動した。 「それなら、俺を殺してから行けよ。俺は、あんたが親を殺すのを見たくないんだ。今は憎いかも知れないけど、お父さんを殺したら、あんたは傷つく。絶対に、今までみたいに、何も感じないではいられないぜ」 「そんなこと、判るものか」  秋生は頭を振って否定した。 「海人がそうだったんだよ。あんたを殺せるけど、殺したら、もっと後悔するって気づいたって言ってた。あんたはまだ、気づいてないだけなんだ」 「俺に、あいつを許せっていうのか?」 「島での生活をあんたは楽しんでたようにも見えた。人間的に生きられるって言ってたじゃないか。あんたの余裕は、何時《いつ》でも仙北谷を誑《たぶら》かせば島から出られると判ってたからだろう? だから、あんたは、殺すほど親父さんを憎んじゃいけないんだ」  突然、クリスが笑い出した。 「まいったな」  笑いながら、五本の指とてのひらを使って、額にたれてくる前髪を何度も、何度も掻《か》きあげた。 「俺がいつでも島を出られることに、気づいてたのか?」  秋生は頷いた。 「仙北谷が鎖骨骨折の治療に医者をヘリで呼んだって聞いた時に、なんとなく思ったんだ。それに、あんたは一人でも、皆殺しにしてヘリを乗っ取り、脱出できたはずだ。気づいたのは今日だけどな」  降参したように、クリスは寄り掛かっていた壁から離れ、秋生が座っているベッドに近づいた。  腕を伸ばした秋生が、クリスの手首を掴《つか》んで強引に引いた。  秋生の上に、クリスがのしかかる。 「約束してくれ、お父さんを殺さないと。いや、もう、誰も殺さないと……」  碧《あお》くて、金属的な眸《ひとみ》が瞠《みひら》き、秋生を凝視した。  まだ心から従っていない反抗的な炎が見えたが、クリスはきっぱりと言った。 「判ったよ、約束する」 「本当だな?」  念を押した秋生を睨《にら》みながら、クリスも負けじと言った。 「俺は契約は守る。だからお前も、俺に約束しろ」  今度は秋生がギクリとした。 「なんだ?」 「俺より、でかくなるなよ。特に、背が伸びないようにしろ」  真顔のクリスに、秋生は可笑《おか》しくなった。  笑えば気を悪くするかも知れないが、我慢できなくなった。 「笑うな。それと——…」 「それと?」 「これを預かっててくれ」  スーツのポケットから、クリスはラップにくるまれた黒い塊を取りだし、秋生に渡した。 「なんだ、これは?」 「ゴッドハンドの塊。お前、俺が島から持ち出さなかったと思うか?」  秋生は驚いた。そこまで考えつきもしなかった。もしかしたならば、ヒロたちも持ち出している可能性はある。 「時価数千万分か、億にはなるな」 「俺に預けていいのか?」  心配そうな秋生を見て、クリスが頷いた。 「お前は抑制力がある。慎重で、臆病だから、管理者としては最適だ。けど、棄てるなよ。役に立つ時が来るかも知れないからな」 「約束する」  神妙な顔になった秋生に、クリスは笑顔で会話をうち切り、のし掛かったまま、啄《ついば》むようなキスを浴びせてきた。 「お前のお陰で予定が無くなった。退屈だから、犯《や》らせろ」  キスを返しながら秋生は答えた。 「俺に勝ったらな」  池袋のマンションに入ったのは、戻ってから四日後だった。  希望を出し合い、即日入居が可能な所を探した結果、中野と池袋に手ごろな物件があり、最上階の角部屋が空いていた池袋の方を選んだ。  新築ではなかったが、オートロック形式のマンションで、十七階のベランダ付き2LK。  それも、家族用の大きめな浴室があり、キッチンには食事用のカウンターが付いていたので、文句はなかった。  探すにあたっての二人の希望は、ほぼ一致していた。  都市の夜景が見え、車や、人の立てる騒音が聞こえ、海が見えないことが条件だった。  いつか、海を見たくなり、あの鼻の奥にツンとくる潮風の匂《にお》いが懐かしくなるかも知れないが、現在《いま》は、どちらも、嫌な記憶でしかなく、都会の喧騒《けんそう》に身を置きたかったのだ。  保証人は母の貴美子がサインしてくれた上に、何も知らない彼女は、自分の貯金通帳から降ろした三百万円を秋生に置いていった。  秋生は、母の大切な金を預かっておくつもりで受け取り、買ったばかりの金庫に仕舞った。  金庫の他には、ベッドと布団一式に、冷蔵庫とビデオ付きテレビを届けてもらい、簡単な調理器具と食器類、食品や日用品を買った。  秋生は、毎日使う茶碗《ちやわん》を選ぶ時に、わざと、クリスと同じものを選んだ。  飯茶碗から汁椀《しるわん》、総菜用に大小の皿、コーヒーカップ、箸《はし》にスプーン……。すべて、お揃《そろ》いにしたのだ。 「もし、海人がきてこれを見たら、怒るな、きっと——」  部屋に戻り、テーブルの上に夫婦の食器のように揃《そろ》ったものを並べた秋生がそう言うと、届いたばかりのテレビをいじっていたクリスが、振り返った。 「お前は性格変わったな、最初の頃は、真面目《まじめ》な奴《やつ》かと思ったのに」  リモコンを使ってチャンネルを切り替えながら、クリスは笑って言う。 「もともとこういう奴だよ。けど、色んな意味で誰でも変わらざるを得ないよな、あの島を経験すれば…」  上目遣いになったクリスが、秋生を睨《にら》んだ。 「だから、俺にも変われっていうのか?」 「そうだよ」  約束のことを言っているのだ。  クリスに近づき、秋生は口唇を触れさせた。  軽くキスに応えたクリスだが、テレビが十九時のニュースになったので、その先はお預けとなった。  フローリングの床に並んで座り、二人でニュースを観た。  島の話はおろか、海上に墜落したヘリのことにも触れられなかった。  マンションに入居するまで宿泊していたホテルでも、ニュースとすべての新聞を調べたが、一度も報道されていなかった。  何故なのかは判らないが、だからこそ、二人は安心出来ずに警戒を怠らなかった。  闇の力が動きだしているのを感じるからだ。  それでも、住む場所が決まり、家具が入った状態を見ると、安堵《あんど》と感動で心が熱くなってくるのだ。  ニュースが終わると、クリスは買ってきた新聞を広げた。  クリスは新聞を読み出すと止まらないのだ。  二年の間、留守にしていた社会の動きを知るために、情報となるものは片端から目を通している。  キスの続きはまだずっと先のようだと諦めて、秋生は茶碗を洗い、食品を冷蔵庫に入れると、買ってきた一輪のカーネーションを冷凍庫のドアにガムテープで貼りつけた。  冷凍庫の中にはゴッドハンドの塊が隠され、凍っている。その塊の存在は、秋生にとっては島を意味するのだ。  聖なる島に見捨ててきた彼らに許しを請い、悼むように、秋生はそっと手を合わせた。  自分の犯した罪は、生涯忘れずに背負っていくつもりだった。  それが、島を脱出した者——生き残った者としての償いなのだ。  明日には、花瓶を買ってこようと秋生は思った。  それから秋生は、乾杯用に買ったシャンパンを冷やし、浴室へ行ってバスタブに湯を入れ、ベッドを整え、夕食を作りに掛かった。  秋生に作れるのはスパゲティくらいなので、足りない分は買ってきたピザを温め、トマトを切った。  クリスのために、甲斐甲斐《かいがい》しい妻のように働いている自分が可笑《おか》しくなってくる。けれども、彼に、なにかしてやりたかった。  彼を愛し、満たし、そして自分も満たされたかった。 「食事《メシ》だぜ」  呼ぶと、クリスは新聞から目をあげ、食卓となったカウンターにやってきた。 「料理できるんだな、秋生——」 「これが料理と言えればな」  二人でシャンパンを開け、島からの脱出成功と、新居に、これからの生活に向けて、乾杯をした。  何もかも、やり直すのだ。  まだ二人は十八歳と十九歳なのだ。  これから人生をやり直すのも悪くないかも知れない。  そして、やり直すには、遅すぎる訳ではなかった。  秋生とクリスのセックスは、恋人たちが交わすキスからはじまる。  島にいた時のように追い詰められたセックスではなく、濃厚な愛の儀式として、二人はお互いの身体に溺《おぼ》れ、堪能しはじめたのだ。  それは特に、秋生の精神と肉体を解放した。  秋生は、日増しに募ってくるクリスへの愛情と欲望に動揺すら覚えながらも、島にいる間中セーブしようと努力していた激しい感情の揺れ動きに、今はもう思う存分、身も心も委ねてみたかった。  クリスの手が、秋生の心臓に触れてきた。鼓動をてのひらで聞いている様子だ。  そのままベッドに押し倒され、上にのし掛かられ、秋生はキスを奪われる。  クリスの舌に触れられると、炎の先端で愛撫されているような刺激があった。  強すぎる。  口腔に、クリスの舌が滑り込み、情熱的な動きで秋生にからみついてくると、応えながらも、秋生はキスだけで堪らなくなってしまうのだ。  欲望を煽《あお》られ、キスで育てられる。  限界になる前にクリスの肩を掴《つか》んで引き離し、秋生は、もっと愛し合いたいことを眼で訴えた。  秋生が望む愛撫、——コーラルピンクに色づいたクリスを味わわせて貰いたいのだ。  クリスは四つん這《ば》いになると、下肢を秋生に向け、白い谷間に秘匿《かく》している環を差し出した。  切れ込みの浅い谷間は、秋生が手を掛けると青い陰の部分を失って、すべてが剥《む》きだしになる。舌を差し入れるのは簡単だった。  繊細な襞《ひだ》に締めつけられた環を、秋生は口唇と舌を使って愛撫する。  たっぷりと唾液を舌先にからませ刺激しながら、人差し指を挿入して肉襞をひらき、環を崩していくのだ。  秋生に舐《な》められ、指で弄ばれるクリスの方は、屹立《きつりつ》した秋生の下肢を口唇に含んだ。  ディープな吸引で、クリスは秋生の挑戦に対抗してくる。  だが、秋生は、以前よりもずっと、信じられないくらいクリスに対して冷静に、それでいて激しく快感をつくりだせる自分に気がついていた。  自分ばかりが翻弄されるのではなく、逆にクリスをとり乱させ、絶頂に呻《うめ》かせてやろうという欲望がわいているのだ。  秋生自身も、クリスを求めて痛いほど疼《うず》いているが、開発されているクリスの性感をいじめぬく余裕はあった。  指が二本まで挿入できるようになると、秋生は狭隘《きようあい》な腸管《なか》で二股にひらき、隙間から差し込んだ舌で舐めた。  クリスの腸壁《なか》がうねっている。  二本の指を、二本のペニスにみたてて秋生はクリスの内をまさぐった。  以前、海人が一緒に挿《い》れようぜと言って、誘ってきたことがあった。この環が、海人と秋生がくぐりぬけるのに耐えられるのか判らない。隘路《なか》が二本の男を納めておけるのかも判らない。  あの時、クリスは「無茶だ」と言ったが、怒ったふうではなかった。  二人で愛せるのか、秋生は判らなかったが、——これでは、海人が来るのを当然と考えていると同じだった。  そんな自分の考えを頭から振り払い、可能な限りの指技を使って、揉みほぐし、とろけるまで舐めた。  切なげな呻きがクリスから洩れた。  指の付け根を締めつけてくる環が、ヒクヒクと痙攣《けいれん》している。 「…あ…きお……」  口唇から秋生を放して、クリスが腰を引いた。 「ああ…たまらない……も、もう…あぁ…」  腰を淫《みだ》らにうねらせて、自分から秋生の指を引き出したクリスが、身体の位置を変え、猫のように這ってきた。  美しいクリスの貌《かお》に、陶酔の艶が浮かんでいる。同時に、獲物を見つけたように、眸の碧がギラギラと輝いていた。 「早く…お前が欲しい——…」  仰臥《ぎようが》した秋生の上に跨り、クリスは騎乗位でのし掛かるように迫った。 「上に乗るのが好きなのか?」 「征服し…てる感じがするだろう?」  クリスは舐めてとろかされた環に、秋生を咥《くわ》え、上から犯した。  灼《や》かれるほど熱いクリスの隘路《なか》に挿《はい》り込んだ秋生は、きりきりと掻きむしられほどのうねりと締めつけを受け、息が詰まった。  確かに、征服されている感じだ。  秋生を翻弄するかのように、クリスは漕ぐような仕種で動きはじめた。  動かれた途端に、秋生は快楽に眩《くら》んで弾けそうになった。  こみあげてくる快感を怺《こら》えるために、秋生は息を止めたり、吐いたりしながら、クリスの腰のあたりを抱きかかえた。  さらにクリスは、腰で円を描く動作を加えた。  秋生はすぐさま反応し、たまらない快感に身体を硬直させ、息を止めていなければならなかった。  このままでは今夜の主導権を奪われてしまう。  クリスを貫いたまま腹筋を使って起きあがった秋生は、ベッドの上で胡座《あぐら》を組み、彼の身体と対面した座位に持ち込んだ。  力強い腕に抱かれて、胡座のなかに納められたクリスが、開いた口唇を舐め、秋生の背に足を絡めてきた。  秋生は、クリスの腰を両脇から抱え、下から突きあげた。 「あ!」  尖った息がクリスから放たれ、秋生に加速をつけた。  クリスは、秋生の肩に腕をかけ、身体を引き寄せるようにしながら、自分からも腰を動かしはじめた。  向かい合い、寄り添いあった二人の間に、昂ったクリスが擦れている。  秋生は触れたくて、手を這わせようとしてクリスに止められた。  腹いせに、荒々しく動いてみた。  クリスが短い叫び声をあげた。  目じりがつりあがり、口唇がひらいた。  秋生の上になった身体が跳ねあがるように動き、金砂色の髪が荒々しく振られ、眸が閉じて、眉根がよせられた。  だが、秋生が繰り出す強烈な突きの度に、クリスの身体は、逆に秋生を押し返すように衝き返してくる。 「んッ——く…ううっ!」  不意に、クリスの背筋が、芯を通されたように伸びきり、強張ったかと思うと、グッと後ろに反り返った。 「は…あぁ……」  食いしばった歯の間から、歓喜の声が洩れ出てきた。  喘ぎながら、クリスは全身を揉みしぼった。  ガクガクと秋生を咥えた下肢を、痙攣にちかい戦きで、揺すりだした。  ついにクリスは、怺えきれなくなったのか、秋生に身体をあずけた。  彼を受けとめ、ベッドに横たえた秋生は、両足を抱え、奔放にむさぼった。  容赦なく、抉り、激しく、貫き、狭い肉の壁のなかで傲慢にふるまったのだ。 「う……あっ」  クリスの声が低くなり、怒りを含んでいるかのようにくぐもったが、それは、感じている快感を怺えているためだと秋生には判った。  もう、秋生はクリスの肉体を捕まえたのだ。 「いいッ……ああ、いい……」  秋生にしがみつき、クリスは叫び、呻き、喘いでいた。  クリスが洩らす声は、洗練された音楽のようでもあり、原始的な歌声のようにも聞こえる。その秋生の耳に、自分自身の喘ぎが聞こえた。  二つの喘ぎがひとつに混じり合って、新しい音色に変わっていく。  秋生がクリスを歌わせているのだ。  限界を超えた秋生も、クリスの乱れる姿を見ながら、クライマックスに到達した。  目も眩むような快感を堪能したあと、ベッドから降りたクリスは、浴室へ行く前に、窓の外を見た。  摩天楼というには低すぎるが、十七階の寝室からは、都会の夜景が見える。  晴れた東京の夜は、ロイヤルブルーに暮れる。街の明かりが完全な夜を奪っているのだが、様々な人工の光が風に瞬く様子は、うっとりするほどきれいだった。  だが今は、夜景を映す大きな窓の前に立ったクリスと、背景とが混じり合い、効果的なグラビアを見ているようだ。  欲望を感じた秋生は、ベッドから降りて窓際へ行き、後ろからクリスの腰に腕を回し、抱きしめた。 「お前って、絶倫だせ」  だが両手で撫でていた腰を開かせ、秋生は自分の先端を触れさせると、クリスをつついた。 「よせよ…まだ——…」  逃げようとするクリスに、秋生は強い力のこもった一突きでもぐり込んだ。 「ウウッ!」  抵抗できないように、素早くクリスの両手首を掴んだ秋生は、そのまま窓ガラスに彼の身体を圧しつけ、両手を張りつけてしまった。  さらには、広げ方のたりない両足を、払うようにひろげさせた上に、クリスの膝裏を後ろから突き、ガクンと崩させた。 「あう——…」  腰が下がった拍子に秋生が深く入り込んだクリスが呻きをあげた。  突然の暴力的な行為に、クリスが身をよじって逃れようとしたが、十字に架けられた形で押さえられ、背後から欲望に狂う獣と化した秋生に突きあげられる衝撃に耐えるのが精一杯となった。 「ああ……っ…」  冷たいガラスに身体を押しつけて、クリスが喘いでいる。  喘ぎ続けた口唇は乾き、欲望の熱に灼かれた肉体は秋生の放った快楽を搾り尽くし、飲み干したばかりだ。  息を乱し、眼を瞑《つむ》っている。  肩から首筋、金貨の鎖に口づけていき、秋生は柔らかい髪に隠れたクリスの耳たぶを舐めた。 「クリス、明日はなにをしたい?」  秋生の最後の一滴までも搾り尽くそうとするかのように、ブルッと、クリスの下肢が慄《ふる》えた。 「こ…んな時に、よくそんなこと訊けるな……」 「何時ならいいんだ?」  まだ身体の内にある秋生の形のすべてがクリスには感じられるだろう。クリスは喉を鳴らしてくすぐるような声で笑った。  笑うと、また締まり方が変わってくる。  またも変化したらクリスは怒るだろうか——と考えながら、秋生は囁《ささや》いた。 「俺と一緒に、あんたの十九年間を埋めよう。だから、明日は何をしたい?」 「あれを食べようぜ」  喉を鳴らしながらクリスが続けた。 「冷凍のたこ焼き、ニョロニョロ動くやつさ…」 「オーケー、俺が作ってやるよ。得意なんだぜ」  秋生は答え、クリスを抱きしめて首筋に顔を埋めた。  あとがき  こんな話が書きたい。こういう登場人物を描きたい。彼らに、こんなことや、あーんなことをさせてみたい。そういう欲望が私の小説を書くときの原動力ですが、今回は、いままで書いてきたものと少し傾向が違います。  違うと思っているのは私だけかもしれませんが…、とにかく、秋生《あきお》や、クリス、海人《かいと》たちが私の裡《なか》に産まれたので、彼らが動ける場所、彼らがあーんなことや、こーんなことをしちゃえる場所を造ろうと思ったら、なぜか、絶海の孤島になってしまいました。  自分が日本海側に住んでいるので、気候などが判《わか》りやすいようにとホーリー島も日本海側にしてしまいましたが、今考えると、南国の島の方が色々楽しかったかもしれません…。うーん、でも、楽しい島だと、脱出したくなくなりそうだから、まあ、いいか。  島のことや、ヘリのこと、武器のことなどなど、今回はインターネットで資料を集めました。思わず、孤島での生活知識なんて保存したりして…。便利でよい時代です。  書いている間は、楽しくて、ついつい、前半だけで三百枚も書いてしまうほどでした。  ザクザク削って、なんとかこの枚数に納まりましたが、圭や、ヒロ、南のことも色々書いてあげたかったな…とも思います。  そうそう、『堕天使《だてんし》の島』を書いている間中、私は食事づくりに執念を燃やしました。  何故《なぜ》でしょう…。  彼らの食糧不足を自分で補ってどうする〜とも思いますが、我が家は、おかずが四品(笑)とか、以前の貧しい食卓とは違っておりました。書き上がったので、また、一汁一菜です…。  今回も沢山《たくさん》の方々にお世話になりました。  日本インターネット歴史作家協会所属の作家さん方、私自身のホームページの掲示板に来てくださる方々。  水上有理さんには素晴らしい挿画を描いていただきました。  担当の服部さんや、装幀《そうてい》の松岡さん、その他の方々にも、大変にお世話になりました。  ありがとうございました。  文末になりましたが、お手にとってくださった皆様方にも、心よりお礼申し上げます。  愉《たの》しんでいただけたらと願っております。 山藍紫姫子 角川文庫『堕天使の島』平成12年4月5日初版発行